タイの森をつなぐ緑の回廊づくり ― トラと生物多様性を回復するネイチャーポジティブへの挑戦
2024/05/09
- この記事のポイント
- 「昆明・モントリオール世界生物多様性枠組」で定められた、世界の生物多様性保全の目標の一つである「ネイチャー・ポジティブ」。すなわち、自然や生物多様性の回復を実現するためには、保全する地域を戦略的に選ぶことが重要です。タイでは、こうしたう優先的に保全すべき地域を選定し、分断された森林地帯をコリドー(緑の回廊)でつなげることで、重要な森と森の連結性を強化する活動を実施しています。コリドーをつたってトラやその他の野生生物が生息地を広げ、より健全な森林生態系の形成とそのネットワークの強化を促す試みです。現地の取り組みを紹介します。
ネイチャーポジティブのためにはどんな場所を守るべき?
昨今、ネイチャーポジティブという言葉をよく耳にするようになりました。
これは、国連生物多様性条約で合意された「昆明・モントリオール世界生物多様性枠組(GBF)」に明記されている、「2030年までに生物多様性の損失を食い止め、回復傾向へ向かわせる」という、世界の生物多様性保全の目標に通じる取り組みです。
では、回復させるとは、具体的にはどういうことでしょうか?
一つは、生物多様性の場、すなわち生態系、生息地を拡大したり、劣化した生態系を回復させたりすることです。
国際的な目標としても、愛知目標での2020年までに陸域17%、海域10%を保全するという目標から、GBFでは陸域と海域をそれぞれ30%保全する目標(30by30目標)に引き上げられています。
そのため各国は保全地域の拡大に向けて動き出しています。
しかし、闇雲に保全されている面積が増えればよいというものではありません。
たとえば、図1の左側の6つの合計面積は右側の1つ丸と同じ面積ですが、生物多様性の保全においては、右側のように1つの大きな地域を保全できる方が望ましいとされています。
理由はいくつかありますが、左側のパターンでは、外界と接する長さ(円周)がより長いので、外部の影響を受けやすいこと、6つの丸が外界に分断されており、生き物の移動が妨げられることなどが挙げられます。
次の例(図2)も右側と左側では同じ面積ですが、これに加えて、新たな保全地域を作る場合、既存の保全地域のつながりを強化できると理想的です。
さまざまな事情により難しい場合もありますが、常に理想的な方策をまず模索することが望まれます。
30by30目標においても、連結性の強化が強調されています。
右側の例のように、森などの既存の生態系の塊をつなぐエリアのことを、緑の回廊(エコロジカル・コリドー、またはコリドー)と呼びます。
タイにおけるコリドーづくりの取り組み
東南アジアの貴重な自然が今も残る、メコン地域のタイでは今、まさにこの「コリドー」づくりが進行中です。
場所は、タイとミャンマーの国境地帯にある、「ダナ・テナセリム・ランドスケープ(DTL)」と呼ばれるエリアで、トラやアジアゾウの保全など、WWFが集中的に保全活動を行なっている場所でもあります。
総面積は18万km2で、日本の総面積の約半分にも及びます。
その中にはすでにたくさんの保護区が設置されていますが、法的保護のないエリアも多く、そうした場所を中心に森林などの自然が失われています。
このランドスケープは、希少なトラの亜種インドシナトラ(亜種の分類には諸説あります)の生息地として知られていますが、その多くが北部の西部森林地帯(Western Forest Complex)に集中しています。
17の保護区が隣り合わせに設置されていて一つの塊のようになっており、総面積は18,700km2(四国とほぼ同等)の大きさがあります。
こうした地域に現在、野生のトラが100頭ほどが生息していると言われており、その数は安定状態にあります。
しかし、増加に転じないことが最近の課題となっており、さまざまな取り組みを行なっています。
将来的には、この地域で数が増えたのち、他の地域に自然に移りすみ、トラを頂点とした健全な生態系が各地で形成・保全されていくことが望まれています。
トラの生息域を保全する
トラや他の野生生物が生息域を拡大できるようにするためには、野生生物が西部森林地帯から他地域に安全に移動できるルートを確保し、一つにつながった保護地域を形成することが必要です。
しかし、西部森林地帯の周辺地域では法的保護がかかっておらず、森林などの自然がすでに失われてしまったエリアもあります。
そこで、WWFは現在、西部森林地帯の南方にあるケーン・クラチャン森林地域(Kaeng Krachan Forest Complex)とつなげるための、コリドー(緑の回廊)を作るためのプロジェクトが進行しています。
こちらの森林地域も複数の保護区で構成されており、トラが散発的に確認されてはいるものの、もっと多くのトラが生息できるだけのサイズがあるため、移住先として適したエリアと考えられています。
プロジェクト概要
コリドーづくりの近況と課題
コリドー実現のためには、どんなことが必要でしょうか?
コリドーの候補エリアでは現在、コミュニティ林、ロイヤル・プロジェクト実施地域、保護林など、さまざまな土地利用がなされています。
したがって、これらの土地に関わる多様なステークホルダーをまとめ、皆でコリドーという一つの目標に向かって前進していかなければなりません。
たとえば、コリドー候補地のある地域では、隣接する保護区の拡張や、禁猟区の設置により、より良い保全管理状況をつくり出そうとしています。
これを実現するためには、現地の森林や人々の活動の調査や、土地利用の合法性の確認、住民など地域のステークホルダーとの合意形成から始まり、国立公園・野生動物・植物保全局(DNP)の地方オフィス、中央オフィスでの検討、省庁レベルでの検討を経て、最終的には政府の承認を得る必要があります。
実現に至るまでには、多大な労力と時間が必要とされる取り組みです。
コミュニティ林
コミュニティ林は、地元コミュニティが非木材林産物を採取したり、学習やエコツーリズムの場として提供したりすることができる森林を指します。
コリドーの候補エリア内外にもコミュニティ林が点在しています。
そのため、こうしたコミュニティと協議を行なうことで、理解を深めてもらい、持続可能な森林の利用を推進しています。
そうすることで、地域コミュニティも森林を縮小・劣化させることなく持続的に森林資源を利用でき、野生生物の移動も容易になります。
ロイヤル・プロジェクト
ロイヤル・プロジェクトとは、タイ国王や王族などの意向をもとに実施される、タイ独自のスキームを持ったプロジェクトのことです。
主に農業関連のものが多く、農村地域などの住民の生活を改善することを目的としています。
コリドー候補地にはこうしたロイヤル・プロジェクト実施地域が含まれており、王立森林局などの関係者と協議を行なっています。
該当するエリアでは、OECM(Other Effective Area-based Conservation Measures)※として森林や自然を適切に管理することで、コリドーの一部として機能する状態を実現できるのではないかと考えられています。
※OECMとは、「保護地域以外の地理的に画定された地域で、付随する生態系の機能とサービス、適切な場合、文化的・精神的・社会経済的・その他地域関連の価値とともに、生物多様性の域内保全にとって肯定的な長期の成果を継続的に達成する方法で統治・管理されているもの」(CBD-COP14において採択、環境省による仮訳)
これらの活動と並行して、コリドー候補地ではカメラトラップ(赤外線センサーを使った自動撮影カメラ)による野生生物調査も実施しています。
集められたデータは、コリドーの実現による変化を知るための重要な基礎情報となります。
さらに、必要に応じて森林再生活動や、地域住民向けの環境教育や啓発活動も行なっています。
トラ、ネイチャーポジティブ、カーボンニュートラル
ネイチャーポジティブは、カーボンニュートラル(脱炭素)とならび、未来に受け継がれる持続可能な社会を実現するために、今の世代が、実現させなければならないことです。
そのための取り組みは、効果を最大化するためにも、「どこ」で「どのように」実施するのか、注意深く検討する必要があります。
タイでのコリドーをつくる取り組みでは、単にトラの長期的な生存の可能性を高めるためだけでなく、森林などの自然の減少を防ぎ、トラを頂点とした健全な生態系を増やしていくことを目指しています。
とくに森林は、気候変動対策の観点でも重要な位置づけがなされるようになってきました。
このプロジェクトは、ネイチャーポジティブとカーボンニュートラルの両方に資することが期待された試みなのです。
WWFはこれからも、国境を越えた協力のもと、その実現に向けた取り組みを続けていきます。