南米チリ「命の海」の保全プロジェクト進捗報告
2019/07/24
危機にさらされる「命の海」
西は太平洋、東はアンデス山脈に面した、南米の国チリ。チリは南北に長い海岸線を持つ国ですが、とりわけその南部の沿岸では、氷河の侵食によりつくられたフィヨルドの独特な地形と、南極からの冷たいペルー海流の影響を受けた、豊かな海域が広がっています。
良好な水質と豊富なプランクトンに恵まれたこの海は、アシカなどの海獣類やペンギンなどの海鳥の楽園。また、世界屈指の漁場の一つでもあります。生物多様性の高さから、その海は「命の海」ともいわれています。
しかし今、養殖業や漁業をはじめとする人間による利用が拡大し、この「命の海」に脅威が迫っています。
その一つが、沿岸域で行なわれているサケ(サーモン)養殖業。
チリは、ノルウェーに次ぐ世界第二位のサケ養殖生産量をほこる国ですが、こうした養殖は、エサの食べ残しや排泄物などによる水質汚染、また魚の病気を防ぐ薬品の多量の使用を引き起こします。これによる、自然環境や野生生物への深刻な影響が危惧されています。
そして日本は、このチリ産の養殖サケを世界で最も多く輸入している国の一つ。天然と養殖を合わせた日本のサケ供給量のうち、実に40%近くをチリ産が占めています。
日本のサケの輸入と消費は、チリでのサケ養殖が引き起こす問題と、地域の自然環境や野生生物の生存に、深くつながっているのです。
人間の利用により危機にさらされている「命の海」。WWFでは、貴重な生態系をもつこの海を守るため、日本とチリの事務局が協力し、以下の活動に取り組んできました。
現在までの、その取り組みの進捗と成果についてご報告します。
1.継続した鯨類や海鳥の生態調査
チリイルカ、チリの固有種に迫る危機
チリ沿岸の海は、世界でこの海域にしか分布していない「固有種」が多いことでも知られています。
その代表が、チリイルカ(ハラジロイルカ)です。
丸みを帯びた背びれが特徴的なこの小型のイルカは、世界中で確認されている80種以上の鯨類のうち、特に南部の沿岸を中心とした海域にのみ生息するチリの固有種。これまでほとんど調査が行なわれておらず、その生態や個体数も、はっきりと分かっていませんでした。
それでも、分布域がかなり限られており、個体数がかなり少ないと推定されていることに加え、沿岸に設置された漁網に誤って絡まる「混獲」の犠牲や、養殖場の獣害対策用の網にかかって命を落とす事故が多発していることなどから、絶滅のおそれがあるのではないか、と考えられています。
何より、他の生きものを捕食して生きるこのチリイルカのような、地域の生態系の上位にある象徴的な種(しゅ)の保護は、海域全体の環境を守ることにもつながります。
そのためWWFは2016年より、チリの野生生物の調査団体ヤクパチャと協力し、謎多きチリイルカの調査を開始。個体数や生態、また漁業や養殖業など人間が利用する海域と、生息域の重なりなどを明らかにする取り組みを始めました。
始まったチリイルカの調査
調査地としてWWFとヤクパチャが選定したのは、チリ南部ロス・ラゴス州のチロエ島北部のケンチ(Quemchi)と、その北東の対岸にあるカルブコ(Calbuco)です。
この二か所は、2006年にヤクパチャがチロエ島で実施した調査の結果、重要な生息海域として想定されていた場所でした。
調査では、小回りの利く小型ボートで、距離を取りながらカメラでチリイルカを撮影。データを収集しました。
特に、イルカの背びれは人間の指紋のように個体によって異なっているため、記録した背びれの特徴のデータを集めれば、実際にチリイルカが何頭いるのか、推定しやすくなります。
今回、それを基にチロエ島周辺の2か所における推定個体数を算出。合計で少なくとも、104頭の個体が生息していることを確認しました。また、調査では同時に、水の塩分濃度や透明度を記録し、チリイルカが好む環境についても調査を行ないました。
2006年の調査結果とあわせて分析した結果、チリイルカが、波の影響を受けにくい入り組んだ入り江の、岸に近い場所を特に好むことが確認され、チロエ島とその周辺におけるチリイルカの主な生息海域を明らかにすることができました。
今ものこる問題と危機
一方で、こうしたチリイルカの生息海域の多くでは、漁業や養殖業が行なわれていたり、市街地や工業地帯が近くにあるなど、さまざまな影響が懸念されることも、今回の調査で分かりました。
実際に、沿岸漁業による「混獲」やサケ養殖場の獣害対策用の網に誤って絡まることで、チリイルカが命を落としてしまう事故も報告されています。
近海に生息する、マゼランペンギンやフンボルトペンギンをはじめとする海鳥も、同様に混獲の犠牲になっており、イルカのみならず、地域の野生生物に配慮した対策が求められます。
WWFは今後も、チリイルカの調査を継続しつつ、ペンギン類などについても調査を行ない、得られたデータを基に、新たな海洋保護区の設置や、人間の利用による野生生物への影響を低減させるため、環境への影響調査や、政府や養殖にかかわる企業に向けた働きかけを行なっていきます。
2.海洋保護区の拡大と保護区の適切な管理事例の構築
海洋保護区の設立と人の利用
野生生物の調査は、単にその対象となる生物の生態を明らかにしたり、保護に役立つだけでなく、その生物が生息する環境を保全していく上でも、重要な知見をもたらしてくれます。
実際、チリ南部の沿岸でも、WWFは鯨類や海鳥の調査を通じて、その保全上重要な生息海域を明らかにし、そこを海洋保護区とするよう、チリ政府や地方政府に対し、働きかけてきました。
その結果、2014年2月に、チロエ島と本土を隔てる湾の一つコルコバド湾で、新たに3か所の海洋保護区の設立が宣言されました。
そのうちの一つ「ピティパレナ・アニーウェ(Pitipalena-Añihué)海洋保護区」は、人による海の利用を全面的に制限するのではなく、環境の保全と利用との両立を目指して設立された保護区です。
この保護区には、チリイルカやシロナガスクジラなどの鯨類、ミナミウミカワウソやオタリアなどの海棲哺乳類が生息。海鳥も、マゼランペンギンやサカツラウをはじめ43種が確認されている、海鳥の楽園でもあります。
さらに、ウニやムール貝などの貝類や海藻類も豊富に生息。周辺の集落「ラウル・マリン・バルマセーダ(Raúl Marín Balmaceda)」に住む人々にとって、重要な漁場にもなっています。
チリ初となる、海洋保護区の協働管理に向けて
しかし、保護区内で行なわれている漁業や養殖業は、持続可能なやり方に転換し、適切に管理していかなければ、野生生物からすみかや食物を奪ったり、貝などの水産資源を枯渇させてしまうことになりかねません。
そこでWWFは、2015年9月より、ピティパレーナ・アニーウェ海洋保護区で、地域住民、サケ養殖企業、政府の「協働」による、適切な海洋保護区の管理計画の策定に向けた活動を始めました。
この管理計画とは、地域の方々や企業が保護区を利用するにあたり、どこの場所で、どのようなことに気を付けなければならないのかを明らかにしたものです。
特に課題となったのが、保護区を利用する関係者に、どう意欲を持って管理計画の策定に参加してもらうか。
そのための協力体制をどう確立するかです。
実際に当初、関係者の関心は低かったものの、話し合いを重ねる中で、保護区の重要性や保全への意欲を高めながら、検討を進めることに成功。特に、地域住民であるラウル・マリン・バルマセーダの人々については、主体的に管理計画の策定に関わるようになりました。
また、この活動を開始した当初は、地域住民とサケ養殖企業の間でほとんど対話が行なわれておらず、決して良い関係とは言えませんでした。
しかし、管理計画策定の過程で、地域住民とサケ企業が話し合う機会を提供。信頼関係の構築を図るとともに、それぞれの保護区の利用状況を把握し、より適切で効果的な管理計画づくりを目指すことができました。
そして、活動開始から3年の期間を経て、2018年に管理計画の草案が完成。2019年中には、チリ政府の承認を受けて、管理計画が正式に発表される見込みです。
こうした地域の利害関係者が協働して、海洋保護区の管理計画を策定した例は、チリで初めてのことになります。
3.自然環境や地域社会に配慮した持続可能なサケ養殖への転換
チリのサケ養殖生産量の20%がASC認証に!
三つ目の取り組みである、養殖の改善についても、チリでは年々着実な進展がみられています。
2018年12月までに、チリのサケ養殖生産量の20%が、ASC認証を取得しました。
「ASC(Aquaculture Stewardship Council:水産養殖管理協議会)」認証とは、国際的な養殖業認証で、自然環境や地域社会・労働者に配慮した、持続可能な養殖場に与えられるものです。
WWFはこれまで、サケ養殖業に関わる問題の解決に向けて、サケ養殖企業に対し、このASC基準にもとづいた養殖業改善のサポートを行なってきました。
そして2014年、チリで初めてASC認証を取得したサケ養殖場が誕生。
それ以降も、認証を取得する養殖場の数は急速に伸び続けています。
野生生物を保全する持続可能な養殖業
ASCの基準では、自然環境や野生生物への配慮が要件として定められており、サケ養殖による影響を最小限にすることが求められています。
実際、ASC認証を取得するためには、養殖場は、薬品(抗生物質)の使用回数の制限や段階的な使用量削減を行なわねばならないほか、絶滅危惧種を含む野生動物を、網にかけて死なせないようにする配慮ことが必要になります。
同時にASCでは、認証の取得をめざす養殖企業には、地域社会と定期的な協議を実施し、対立を回避するように、社会的な配慮を実践することも求めています。つまり、ASC認証を取得するサケ養殖場が増えることで、サケ養殖が抱える自然環境や地域社会の課題を、解決につなげることができるのです。
しかし、これだけで問題の全てが解決できるわけではありません。特にチリでは、サケ養殖企業と地域住民や先住民との対立が、各地で発生。国として、大きな問題になっています。この解決には、ASC基準が定める内容以上の改善と行動が必要です。
サケ養殖企業にも、地域住民や先住民と、彼らが望む地域の在り方について真摯に話し合い、その意見を尊重しながら養殖業を行うことが厳しく求められています。
これを支援するため、WWFでは、サケ養殖企業向けのガイドラインを作成。業界全体が地域住民や先住民に配慮したサケ養殖業に転換することを目指して、取り組みを進めています。
また、このチリの海で行なわれている養殖は、日本のサケの消費も支えています。つまり、チリが抱える課題の解決には、日本にも大きな役割と責任があり、サケの生産と消費を持続可能なかたちに変えていく義務があるということです。
WWFジャパンでは、日本の消費者に広くASC認証を認知してもらうと共に、日本の水産企業やスーパーマーケットなどの小売企業に対し、ASC認証を受けたシーフード(水産物)の調達を促進するよう、働きかけを行なっていきます。
生きものと人、共に生きることができる未来へ
WWFが6年間にわたり継続してきた「命の海」の保全活動。
これを支えてくださったのは、WWFジャパンを通じていただいた、日本の皆さまからのご支援でした。
ここにご報告した、鯨類・海鳥の調査、海洋保護区の協働管理事例の構築、持続可能なサケ養殖業への転換の活動を中心に、「命の海」の保全は現在着実に進みつつあります。
一方で、チリイルカをはじめとする野生生物への脅威や、サケ養殖企業と地域住民や先住民の関係性など、特に今後、取り組みの強化が必要とされる課題も明らかになってきました。
WWFはこれからも、新たな課題の解決を目指しつつ、これまでの取り組みを継続し、南米チリの海で、生きものと人が共に生きることができる未来を目指していきます。
これまでご支援をくださった、WWFジャパンのサポーターの皆さまに、厚くお礼申し上げますとともに、あまたの生きものたちを育む「命の海」の活動に、引き続きご関心をお寄せいただければ幸いです。