石巻市尾崎地区、三條造船への太陽光発電支援
2013/04/16
2011年3月11日、東日本大震災の津波による被害は、未曾有の規模となりました。中でも宮城県石巻市は、北上川、旧北上川の2本の大河川を遡った津波が、内陸15kmに届こうかという広い範囲を破壊し、多くの犠牲を出しました。石巻市の北端に近い尾崎(おのさき)地区も北上川の河口部に当たり、被害が大きかった地区の一つです。特に激しい地盤沈下によって、通行の便が断たれてしまったことが復興を一層困難にしています。電気が戻るめども、震災後2年経った今でも立っていません。尾崎地区自体は、浅く静かな長面浦の貝類の養殖で知られる漁村で、九死に一生を得た皆さんは、水産業の復興を願い、養殖の再開に乗り出しています。そんな皆さんにとって何より必要なのは、津波で失われたり傷んだりした、漁船を造り修繕する造船所の存在。WWFジャパンも、東日本大震災「つながり・ぬくもりプロジェクト」の一員として、地元の三條造船さんへ大型太陽光発電をご支援しました。
石巻市だけで、阪神・淡路大震災並みの犠牲
2011年3月11日、東北、関東を襲った東日本大震災。この未曽有の大災害は多くの人命を奪い、沿岸の人々の暮らしを破壊しました。
中でも宮城県石巻市は、震源地に最も近い大都市という立地も災いし、旧北上川の河口部に位置する広い市街地も軒並み津波で破壊され、亡くなった方の数がここだけで阪神・淡路大震災の犠牲に迫ろうかという、尋常でない被害を蒙りました。
この状況は、市街地に入る前に東流して、直接太平洋にそそぐ北上川流域も同じでした。
津波は5km近くも内陸の大川小学校と周辺地域を無残に洗い流しただけでなく、さらに10km近く奥のV字に曲がる北上大堰付近まで爪痕を残し、最終的には50km近くさかのぼって岩手県境付近まで遡上しました。
北上川河口部の南側に広がる尾埼(おのさき)地区も、大川小学校の校区のひとつで、石巻市の最北端、北上川河口の南側に広がる長面浦(ながつらうら)周辺のラグーン地帯です。
豊かな水量を誇る北上川の終着点、長面の浅い潟湖には、この地域では唯一バカガイが生育し、カキやホタテの養殖も盛んな漁村として知られていました。
流域の被害が広がる中で、外海から尾勝(おがつ)の小高い山陰で隔てられ、津波の勢いが削がれたこの地区では、高さのある引き波に1階を破壊されたものの、かなりの家屋が倒壊せずに残りました。
復興を妨げる地盤沈下
尾崎地区と「つながり・ぬくもりプロジェクト」のご縁がはじまったのは、2011年6月頃のこと。協力団体の一つで石巻市を中心に支援活動を展開していた、「アースデー東京タワー・ボランティアセンター」からの相談でした。
石巻市は震源地に近かったせいで、地震による地盤沈下の影響も大きく、復興の妨げとなっています。大川小学校がある新北上大橋のたもとから尾崎地区までの三角地帯は、被災地の中でももっともひどい、最大1.8mという落差で地面が水没してしまったと聞きます。
このため、震災前と後では、土地の様相がまったく変わってしまい、かろうじて生き延びた皆さんも、漁業を再開したくても、船や漁場に近づけない日々が続きました。
震災前は広々とした田んぼが広がっていた一帯は、一面に水没してしまい、尾崎地区や手前の長面地区に向かう道路は、大川小学校から山沿いを伝う1本道がかろうじて残り、1m以上盛り土をしながら復旧されていったのです。
そして、ようやく2カ月かかって道路の復旧に目途が立ち、長面(ながつら)浦の出口に待望の橋が再建した途端に、今度は流れ残った家財を狙う空き巣が入り込みはじめました。
電気がまったくない中、夜間の作業は難しく、地区の皆さんは車で30分かかる避難所から、昼間だけ海に通いはじめたところで、せめて橋のたもとに街灯をつければ、空き巣も夜闇に乗じるのを躊躇するのではないかと、「つながり・ぬくもりプロジェクト」に依頼が舞い込みました。
養殖再開を願う尾崎地区の人々
地盤沈下の影響は深刻で、今後は居住制限区域になることもあって、尾崎地区は2年経った今でも、電気・水道の復旧計画は進んでいません。
しかし地元の漁師の皆さんは、なかなか届かない自治体の救援を待って手をこまねいていても仕方がないと、早くから自力の復興を目指して動いて来ました。その要といわれたのが、大型太陽光発電設備の支援先となった三條造船の再建です。
三條造船は、長面浦に面した漁船を建造する個人の造船所ですが、震災前から使い手の様子をよく見て、使い勝手の良い船を造ると、三陸でも評判の船大工さんでした。
そして、この地域では唯一小型船の修理を行える造船所として、長面浦で盛んであった牡蠣養殖、刺し網漁を営む漁師の皆さんを支えてきました。
震災後、救援、復旧が一段落し、漁師さんたちが復興に向け、津波で流されてしまった漁船を再び手に入れ水産業を再開するには、なくてはならない人物なのです。
2012年5月の連休、太陽光発電の工事の時にも、はるばる気仙沼からも、船の建造の相談に人が来ていました。
再建は水産業関係者の願いであり、震災後、まず建屋の修繕に取り掛かりましたが、ここも地盤沈下のせいで、基礎を1m以上かさ上げする必要がありました。
この土盛りが海水を抜きながらなので予想以上に手間取り、建屋がもとの場所に建つまでに、震災から1年以上がかかりました。
その造船所にとって、クレーンや溶接設備を動かす電気の供給は死活問題です。
しかし建屋が出来上がっても、残念ながら尾崎地区に、水没してしまった長い長い距離を、電線を再度引いて電気が戻る目途はつきませんでした。
東日本大震災「つながり・ぬくもりプロジェクト」の支援
空き巣対策をきっかけに、「つながり・ぬくもりプロジェクト」と尾崎地区の関係は深まっていきます。地盤沈下によって送電網がずたずたになり、取り残されて復電が一層困難な地区にとって、その場で発電と給電が完結する太陽光発電は、なくてはならないアイテムとなっていったのです。
以来、「つながり・ぬくもりプロジェクト」では、いただいた寄付を元手に、尾崎地区一帯に、街灯、井戸ポンプ、灯台代りの明かり、漁の道具の修繕小屋の照明など、水産業の復興に向けて太陽光発電を支援していきました。三條造船への支援は、20件目に当たります。
こちらはそれまでの400Wずつの小型設備と違い、発電容量は130Wの太陽光パネルが21枚、計2.73kWの出力がある大型設備です。
2012年のゴールデンウィークに、4日間かけて設置されました。高さのある建屋の屋根の上に、これだけのパネルを載せるのは、機材の調達に時間と追加の資金がかかります。また重さと地盤を考え、建屋の前に足場を組んで平置きすることになりましたが、幸い、長面浦に向かって開けた前面は、後ろの山から伸びた枝の陰になることもなく、日照を確保することができました。
この発電設備の大きな特徴は、なんと言っても出力10kWのインバーターです。何時間も点灯する照明や売電用の発電を重視するのではなく、瞬時に大量の電気が必要な工場のクレーンを動かすので、瞬発力が大事なのです。
そしてそれに相応しい容量のバッテリーというと、もちろん一つには収まらず、96台の重いバッテリーが運び込まれ、工場の一角に大きな棚が出来上がりました。出力の際はこの台数を直列に繋ぎパワーを稼ぎます。
4日がかりの設置工事
2012年5月1日~4日、連休の4日間はあいにくの天候となりましたが、「つながり・ぬくもりプロジェクト」の太陽光担当者が、尾崎地区の現状をFacebookで発信し続けたおかげで、自主的なボランティア4人の助っ人が入り、設置がはかどりました。
また千葉商科大学からもゼミ生26人の参加があり、組み上がった架台の上に人海作戦でパネルが載せられ、2日がかりと覚悟していた作業を半日で済ませられたことも、予定通りの完成に貢献しました。
何しろ、電気がまったくない場所ですから、工事はすべて日光が頼りの昼間しかできません。
千葉商科大学のバスが尾崎地区に向かった4日は、篠突く雨が大川小学校からの1本道を洗う悪天候。大船渡からの途中、土砂崩れの通行止めで迂回を余儀なくされ、たどり着けたのは午後1時を回っていました。
幸い、その頃には朝の雨は上がり、寒さも和らいで、日没までの4時間を有意義に使うことができました。
そしていよいよ、"点灯式"ならぬ"稼働式"です。
外で学生さんががんばっている間に、工場内ではバッテリーの接続、インバーターからブレーカーへの配線、クレーンへの配線確認と、「つながり・ぬくもりプロジェクト」太陽光担当のレクスタの皆さんが、急ピッチで仕上げていきました。
クレーンが動いた!
一連の作業をずっとそばで見守っていた三條さんは、いよいよ準備が整ってブレーカーが下がり、「どうぞ」と声を掛けられると、持っていたクレーンの操作盤を一握りしてから電源を入れ、手ごたえを確かめるように動かしはじめました。
すると、1年以上、止まったままだったクレーンが、「グーン」といううなりとともに船型の上を横に動き出し、固唾を飲んで見守っていた人々からも「オォー」「やったー」という歓声があがりました。
薄闇が迫った工場の中でしたが、パッと振り向いた三條さんの顔は紅潮し、将来への光が見えた喜びに輝いていました。
地区の皆さんにとっても、これだけの容量があれば、船舶用バッテリーから携帯電話の充電まで、日々の電気を賄えるミニ発電所になると期待されています。もちろん復電の暁には、東北電力への売電も可能な連系システムです。
被災地への長期的な貢献を目指す第3段階「復興支援フェーズ」に入っていた「つながり・ぬくもりプロジェクト」にとっては、いまだに復電しない地域の復興に突破口を開く、ユニークな支援案件となりました。
約1か月後の6月10日、三條さんを再訪すると、バッテリーを手厚く用意したおかげで、クレーンだけでなく天井の照明なども、被災前に損色ないぐらい使えているというお話でした。
今回の震災によって、非常時にも素早く対応できる分散型の自然エネルギーの重要性が見直されたわけですが、三條造船のケースは、重機まで動かせる地域復興に不可欠なエネルギー源として、新たなモデルを提供しました。
WWFジャパンでも、東日本大震災「暮らしと自然の復興プロジェクト」に皆さまから寄せられたご寄付の一部を、「つながり・ぬくもりプロジェクト」の一員として、この三條造船の太陽光発電設備に支援しました。
「つながり・ぬくもりプロジェクト」では、これとパルシステム東京からの寄付金を合わせ、必要な経費をねん出しています。また三條造船では、建屋内の大型水銀灯証明をLEDに替えて、エネルギー効率を上げることにしており、その大型LEDの設置費用も、WWFジャパンから拠出されました。
関連情報
- WWFジャパンの「暮らしと自然の復興プロジェクト」
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