シリーズ:クマの保護管理を考える(4) 宮城・蔵王のハンターの取り組み


宮城県の蔵王山麓で、ハンターの佐藤善幸さんが始めた「クマのための畑」づくり。その取り組みは、自然の変化を敏感に感じ取り、よりよい環境を残していこう、というハンターとしての想いに支えられています。その根底には、佐藤さんが「親爺」と慕ったアメリカ人の存在がありました。戦後の日本経済発展の光と影を見てきた一人のアメリカ人。その青い目に映ったのは、経済発展に踊らされ、無計画とも言える開発を推し進めてきた日本人の姿だったのかもしれません。前回に続き、蔵王の山からクマの保護管理のあり方を考えます。

ハンターとしての佐藤さん

日焼けした顔に短く刈り込んだ髪の毛。いかにも豪傑なベテランハンターというのが、佐藤善幸(さとうよしゆき)さんの第一印象でした。宮城県猟友会柴田支部に所属しています。

「汚い車でごめんね。オレ、ハンティングするからすぐ汚れるの。本職は造園業だしね。でもね、車って走りさえすればいいと思ってるの。つまり道具だね、移動や運搬の。」

と張りのある大きな声で話す佐藤さん。なんでも、最近車の鍵を失くしてしまったそうで、友人の修理業者に鍵回りのパネルをはずしてもらい、ペンチを使ってエンジンをかけていました。

戦後、宮城県蔵王町に生まれ、蔵王山麓で育った佐藤さんは、高校を卒業後、実家の果樹農家を手伝いながら、ハンティングをするようになったそうです。宮城県の中でも、蔵王山麓は果樹栽培や酪農が盛んな地域で、佐藤さんの実家は、リンゴやモモなどを栽培する果樹農家でした。

佐藤さんがハンティングを始めたのは、猟犬に興味があったからだそうです。22歳の時には、アメリカで猟犬として改良された「プロットハウンド」という犬種を、わざわざ東京まで行ってもらい受け、イノシシ猟のパートナーに育て上げました。当時の日本ではとても珍しい猟犬だったそうです。

「イノシシは追い詰められると怖いよ。牙が犬の胴にかすりでもすると、スパッと切れて内臓が飛び出てしまうからね。日本犬は、気が荒いからね。どうしてもイノシシに飛び掛ってしまうの。それでイノシシにやられたら可哀相でしょ。」

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福島県の飯館村でのイノシシ狩にて。
前列右が佐藤さん。30代の頃。

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プロットハウンドはアメリカで品種改良された
猟犬。狩猟能力の高さや粘り強さが
評価されている。

「だからね、オレはイノシシを追い詰めたら、一定の距離を保ちながら吼えて、飼い主にイノシシの居場所を知らせるプロットハウンドが好きなの。イノシシを見つけたときの吼え方、追跡しているときの吼え方、追い詰めたときの吼え方、色々あるんだよ。」

佐藤さんと「親爺」との出会い

佐藤さんの話の中には、しばしば「親爺」なる人物が登場します。最初はてっきり父親のことを言ってるのだと思っていました。ところが、その理解で話をしていると、話がかみ合いません。そこで、佐藤さんに「親爺」とは誰ですか?と尋ねてみました。

「ああ、親爺ね。父親だと思ったの?ちがうちがう、日本駐在のアメリカの軍人でね。戦後日本に来てGHQ(連合軍総司令部)で大きな仕事をしていたらしいの。そして日本に住み着いちゃったわけ。鳥撃ちが好きで、よく蔵王にも来てたの。」

「親爺が言うには、蔵王は日本で一番ヤマドリが多い場所らしくてね。別荘まで建てて、東京から鳥撃ちに通ってたわけ。米軍を退役してからは、その別荘に移り住んでね。去年亡くなったんだけど、カッコイイ男だったよ。『青い目のサムライ』なんて言う人もいたなぁ。」

佐藤さんと、「親爺=クリントン・ファイスナー氏」との出会いは、1976年、ファイスナー氏が米軍を退役し宮城蔵王に移り住んだときだといいます。当時佐藤さんは26歳、プロットハウンドをパートナーとして、主に福島県の阿武隈山系でイノシシ猟をしていました。

ハンティングをこよなく愛したファイスナー氏は、当時日本では極めて珍しかったプロットハウンドが、まさか宮城蔵王にいるとは思わなかったのでしょう。そのプロットハウンドを調教し、パートナーとしていた見所のある若者=26歳の佐藤さんを、ハンティングの際の案内人兼運転手として雇用したのです。

クリントン・アルバート・ファイスナー(1910年-2010年)

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米国ジョージ・ワシントン大学で神学および法学を修め、ワシントンDCで弁護士になるが、軍属として1945年、35歳の時に来日。GHQ民間通信局に配属となる。 後に同局調査課長となり、占領下の日本で、放送の自由など4原則を示した「ファイスナーメモ」を作成し、放送法など電波3法の基礎となったことで知られた。

占領軍として来日したが、サンフランシスコ講和条約後も米極東軍に在って日本を離れることなく、沖縄返還の日まで任務に尽力した。1975年三木武夫内閣は、瑞宝章を贈ってその功労を讃えている。

親爺の哲学

「親爺は、何に対しても独特の「哲学」をもってたなぁ。ハンティングに対してもね。鳥撃ち専門だったんだけど、ワナ猟をすごく嫌ってた。『獲るなら正々堂々と獲れ』ってね。」

ファイスナー氏は精力的に仕事をこなしながらも、時間を見つけては全国を回り、ヤマドリ猟にいそしんだそうです。当時は戦後の混乱期。食糧難にあえぐ住民が、ワナをつかってヤマドリやキジを獲っていました。その現場に出くわすたびに、ファイスナー氏は住民に一定の金額を渡し、その代わりにワナを預かったそうです。

「オレも昔から、鉄砲しかやらないからな。ワナは嫌いなんだ。言葉の響きも悪いでしょ?ほら、『ワナにかける』っても言うし。そんなところも、親爺に気に入ってもらえてたのかなぁ。」

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くくりわなの踏み板を獲物が踏むと、
ロックがはずれ、 バネが跳ね上がり、ワイヤを引き、
くくり輪を締め付ける。
狙っている動物以外も獲ってしまうことも多い。

元々ハンティングに対する考え方が似ていた二人ですが、ファイスナー氏から学んだことも多いと、佐藤さんは言います。ファイスナー氏はハンティングにもこだわりがありました。多くのワナを使って猟をすることで、鳥獣を獲り過ぎてはならないという配慮からです。

「例えば、イノシシを獲るときに、『くくりワナ』を使うことがあるでしょ?一人で、20個以上もくくりワナをかける猟師もいるの。でも、そんな数のワナをちゃんと管理できないよ。」

と佐藤さんはいいます。ファイスナー氏や佐藤さんは、ハンティングで生計を立てていたわけではありません。それでも、鳥獣を獲り過ぎて極端に減らすことは決してあってはならない、という考えのもと、ハンティングを行ない、そしてハンター仲間にその考えを広めようとしていたのです。

経済成長と開発の影

さらに、ファイスナー氏は、鳥獣の生息環境を守ることにも積極的だったと言います。
蔵王山麓に別荘を建てて通いだしたのが、1960年のことでしたが、その当時から鳥獣の生息環境である山野が無秩序に開発されることを、極端に嫌っていたそうです。佐藤さんはこう言います。

「自然を守るって言っても、口だけじゃあ何もならんからね。山を守ろうと思ったら、山を自分で持って、自分の手で守らなきゃあ。親爺もそう思ってたんだろうね。」

ファイスナー氏は、蔵王山麓の開発にクサビを打ち込むように、要となる土地を買い求めようとしたと聞きます。実際には、所有できた土地も、できなかった土地もあるそうです。

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ファイスナー氏、蔵王山系にての
ハンティング

しかし、1970年代の列島改造ブーム、そして80年代~90年代のリゾート開発ブーム。蔵王山麓でも、それらブームに踊らされた人々が土地を求め、開発を進めてきました。そして、この時のリゾート施設や、別荘地などは今や経営に行き詰まり、放置され、荒れ果てた土地となっていることも少なくありません。

高度経済成長、そしてバブル景気に踊らされた日本人。その結果、次々に生まれる資金を元に、計画性のない開発を次々と進めました。その姿を、戦後復興から日本に深く関わってきた「青い目のサムライ」は、どのように見ていたのでしょうか?

宮城県での大量出没

そんな蔵王をはじめとする東北各地でも、クマの大量出没が起きています。

2006年に発生した大量出没のとき、山形県では692頭、岩手県では261頭、宮城県でも211頭のツキノワグマが捕獲されました。

宮城県ではこの大量捕獲をきっっかけに、県内の生息個体数を大幅に減少させた可能性が高く、地域個体群の安定的な維持を図るため、特定鳥獣保護管理計画(特定計画)の策定が不可欠だとして、2010年にツキノワグマの特定計画を策定しました。

岩手県では2004年に、山形県では2009年に特定計画を策定しています。

東北地方では、クマの狩猟、つまり有害駆除などを目的とした捕獲ではない、ハンティングが認められています。

前回レポートした島根県では、西中国山地の地域個体群の存続を図るため、1994年から環境省がツキノワグマの狩猟を禁止しています。西日本を中心に、国や条例で、クマの狩猟を禁止している県は20を数えます。

これに対し、東北地方はツキノワグマの生息数が最も多い地域の一つ。
山形県では、県内の生息数を1,507頭(2007年6月時点の試算値)、岩手県ではおよそ1,720頭(2004年、2006年の調査の中央値)、宮城県では、2003年~2004年の生態調査により、推定頭数を633頭(推定数の中央値)としています。

東北地方は、クマの個体数が多く、ハンティングも合法で、しかも農業への被害があり、大量出没も起きる、という、非常に複雑な現状が今も続いているのです。
さらに、宮城県では新たなる問題が持ち上がりつつあります。

宮城県内におけるツキノワグマの捕獲頭数(狩猟および有害捕獲)

グラフから、1992年から有害捕獲の割合が高くなっていることがわかる。特に、宮城県で大量出没があった2006年はそのほとんどが有害捕獲となっている。

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宮城県(2010)「宮城県ツキノワグマ保護管理計画」より作成

イノシシの生息地変化がもたらす問題

その問題とは、イノシシの生息域の変化です。
イノシシは近世まで、東北地方の広い範囲で生息していました。
近代以降、高い狩猟圧などにより、明治30年代に一度姿を消してしまったそうですが、現在はまた状況が大きく変わってきました。

福島県の阿武隈山系からイノシシの分布域が再び北へと拡大。その生息域を東北地方に急速に広げているというのです。

原因としては、温暖化による積雪量の減少や人間による意図的な放獣、さらに耕作放棄地の拡大などが指摘されています。

そして、イノシシによる農業被害も問題になっています。

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アリの巣を見つけ、一生懸命彫り返すツキノワグマ

すでに西日本などではイノシシによる農業被害が問題になっていますが、イノシシ用のワナに誤ってクマがかかる錯誤捕獲もまた問題になっています。(島根県の錯誤捕獲の状況:前回レポートを参照/activities/opinion/2550.html

佐藤さんも昔は、わざわざ福島県の阿武隈山系までイノシシ猟に出かけていたのが、10年ほど前から、宮城県の蔵王山麓でもイノシシが増え、今では地元でハンティングをしているとのことです。佐藤さんは、あくまでも自分の考えだとしながらも、強く主張します。

「これはあくまでもオレの持論なんだけどね。イノシシが増えると、クマが減ると思うの。わかる?そう、錯誤捕獲なんかが増えるからね。錯誤捕獲にしっかり対応できる体制が整ってない地域だと、クマが減っていくわけ」

宮城県の資料によると、イノシシの捕獲数は1997年から増加しています。さらに2000年代になると網・わなによる狩猟で捕獲されるイノシシの数が急増。
宮城県では、クマの錯誤捕獲の数字は公表していませんが、イノシシの増加、そしてわな猟による捕獲数の増加によって、錯誤捕獲が増えている可能性は否定できません。

今後宮城県においても、錯誤捕獲への対応や、さらには捕獲したクマに「人間は怖い存在だから二度と近寄らないようにしよう」と学習させて自然へと戻す、学習放獣への対応が課題となってくるでしょう。

宮城県内におけるイノシシの捕獲頭数(狩猟および有害捕獲)

1970年代初頭までは捕獲されていなかったイノシシだが(ほとんど生息していなかったと考えられる)、それ以降微増を続け、1997年以降急増に転じた。

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宮城県(2008)「宮城県イノシシ保護管理計画」より作成

 

宮城県内における捕獲種類別のイノシシの捕獲頭(銃による狩猟あるいは網・わなによる狩猟)

銃による狩猟では錯誤捕獲はほとんどないが、ワナによる狩猟では錯誤捕獲の可能性がある。特にイノシシ用のワナによるクマの錯誤捕獲は問題となっている。一方、増加するイノシシを効率よく捕獲するためワナを使わざるを得ないという現状もある。

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宮城県(2008)「宮城県イノシシ保護管理計画」より作成

蔵王のクマと人々が教えてくれるもの

蔵王山麓で10年以上も「クマのための畑」作りに取り組んでいる人々。その中心には、ハンターであるがゆえに、動物が生息する環境を保全しようと、進んで自ら行動を起こしている佐藤さんの姿がありました。

もちろん、彼は「動物愛護家」ではありません。一方、ハンティングを通して、蔵王山麓の動物とその生息環境を知り、深く係りをもつことで強い危機感をもち、クマの保護活動を実践している人物です。
今後は、「親爺」が残してくれた土地を有効に利用して、クマの生息地拡大につなげたいと語ってくれました。

時代とともに、変化する自然環境。それはいつの時代も、人間の活動により大きな影響を受けてきたといっても過言ではありません。
日本は、近代化の始まった明治以降、150年足らずの間に、急激な発展を成し遂げ、有数の経済大国になりました。それは、過去に類を見ないスピードで自然環境を大きく変えてきた歴史でもあります。日本国内、そして海外の自然環境までも。

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ファイスナー氏の記念盾。
猟銃を持つ自身の写真に、
氏の信条である「Freedom(自由)、
Responsibility(責務)、Service(奉仕)」
三文字の自署がある。

急激に変化させてしまった自然環境の中で何が起こってきたのか、そして現在何が起こっているのか、今一度考えてみる必要があるでしょう。それは、「青い目のサムライ」ファイスナー氏と、その薫陶(くんとう)を受けた「クマのための畑」の佐藤さんが、強く問い続けていることでもあります。

現在日本では少子高齢化が進み、人口は減少に転じています。今後日本の中山間地域では、ますますさまざまな問題が深刻になっていくでしょう。野生動物との軋轢(あつれき)もその一つです。

そのような中、クマをはじめとする野生動物とどう向き合っていけばいいのか、よく考えてみる必要があります。ファイスナー氏の信条である「Freedom(自由)、 Responsibility(責務)、 Service(奉仕)」の精神をもって。

 

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