地元の海を取り戻したい 福島県松川浦の取り組み
2011/09/20
福島県相馬市の松川浦は、東北地方を代表する干潟で、国内でも有数の渡り鳥の飛来地です。この松川浦は、2011年3月11日の東日本大震災で、津波の大きな被害を受け、自然環境が激変しました。しかし今、この海を取り戻そうとする、地域の人たちの取り組みが始まっています。
東北を代表する湿地「松川浦」
松川浦は、その北端で太平洋とつながり、5キロにわたる縦に長い袋状の形をした潟湖。海水と淡水の混じり合った気水域のため、特有の生物が生息しています。
ここは、貴重な干潟の景観を持つ場所でもあり、ヒヌマイトトンボなど、環境省の絶滅危惧種に指定されている生物をはじめ、100種類を超すカニや貝やゴカイの仲間が生息。
魚類も豊富で、潟湖の約半分が潮で満たされる春の大潮の季節には、数多くの渡り鳥が、干潟の小動物を目当てにこの地を訪れます。
また、この松川浦は、人が海と長年共生を実現してきた場でもありました。
松川浦と太平洋をつなぐ潮口(潮の出入り口)は、砂州が発達しやすく、潮口が埋まりやすいのですが、明治時代の末、新たな通水口を掘削して人工的な潮口を設けることで、潟湖の淡水化を防ぎながら干潟の景観を残し、さらに長年悩まされてきた水害を防ぐことに成功してきたのです。
自然とともに生きてきた先人たちの知恵が、生きる場所といえるでしょう。
しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災の折、沿岸一帯に押し寄せた津波は、周辺地域で多くの人命を奪うとともに、この豊かな松川浦の自然も一変させました。
津波は砂州を分断。外洋の水が轟々と潟湖に流れ込み、周辺のヨシ原や、アマモが生育する浅い海域は、水没。その後も、水が引かず、変化に富む干潟の景観と共に姿を消してしまいました。
松川浦がつなぐ地域の絆
それでも震災後、水辺には小魚が群れ、シギなどの渡り鳥が、海に浮かぶ流木の上で休む姿が見られ、本来いないはずの場所にも、生きているカニが認められたのです。
この松川浦と、生きものたちを取り戻したい。そんな思いを持つ、地元の市民の間では、すでに復興に向けた取り組みが始まっています。
中心になっているのは、エチオピアの植林活動で実績のある特定非営利活動法人フー太郎の森基金の代表も務める新妻香織さんが、松川浦の自然を守ろうと2000年に地元で立ち上げた市民団体「はぜっ子倶楽部」。
この団体は、自然観察会を継続的に実施し、松川浦の自然の大切さを地域の住民と共有しながら、一方で大学の研究者や地元の老人会、環境グループなど、多様な関係者との交流を深め、地域とのつながりを育んできました。
このつながりが、震災後の地域復興にも大きな力を発揮しているのです。
「はぜっ子倶楽部」が最初に取り組んだのは、基本的な電化製品しか備え付けられてない仮設住宅に、必要な家具や食器、電化製品などの物資を送ってくれるよう、全国に呼びかける活動でした。
そして、集まった物資を入居者に配布する会を4回も開催。さらに、在宅被災者の実態調査も行ない、その結果明らかになった、不足している生活支援物資の配布会も継続しています。
行政の目が届きにくい、地域の被災者のニーズを集め、確実な支援へと結びつける、多くの人とつながりがあるからこそできた「はぜっ子倶楽部」の底力といえるでしょう。
松川浦を取り戻すまで
こうした、地域の絆に支えられた取り組みのきっかけになった松川浦が、これからどうなるのか。その復活には、何ができるのか。地域の人たちも高い関心を持っています。
もともと松川浦は、東北太平洋岸でも屈指の豊かさを誇る干潟であり、生物の生息状況を長期的に把握する環境省のモニタリングサイト1000にも選定されている場所です。
また、同時に、年間100万人の観光客が訪れる、風光明媚な県立自然公園でもあります。潮干狩、海水浴、サーフィン、磯遊び、釣りなど、豊かな自然は多くの安らぎを与えてきました。
かつての豊かな自然は、津波で変わり果ててしまいましたが、そこに息づく命は絶えていません。長い時間がかかるかもしれませんが、変化を見せながら、また新しい海の姿を見せてくれるかもしれません。
その自然を愛する地域の人たちと共に、松川浦の自然をも含めた地域の復興を支えてゆかねばなりません。