南三陸町戸倉地区へのWWFジャパン緊急支援報告【詳報】
2011/12/26
WWFジャパンは、2011年3月の東日本大震災を受けて、被災地救援のための緊急募金を実施し、お寄せいただいた募金の一部で、「つながり・ぬくもりプロジェクト」を通じた、被災地への自然エネルギー支援を行なってきました。この緊急支援募金による活動が、11月1日に行なった、宮城県南三陸町志津川地区での街灯の設置をもって、ひとまず終了しましたので、その報告をまとめました。なお、「つながり・ぬくもりプロジェクト」を通じた被災地支援は、現在行なっている「暮らしと自然の復興プロジェクト」でも継続し、特に水産業の復興へ向けて、自然エネルギーによる貢献を目指しています。
活動の始まり 被災地の現場に通ったスタッフのレポート
2011年4月下旬に行なった、南三陸町戸倉地区避難所への「つながり・ぬくもりプロジェクト」による太陽光発電設備の支援は、WWFジャパンを支えてくださるサポーターの皆さまからの緊急募金の機動力と、「つながり・ぬくもりプロジェクト」メンバーであるレクスタ(自然エネルギー事業協同組合)さんの、現場に根付いた即戦力のコラボにより、非常時に大きな相乗効果を発揮しました。
震災から6週間経たない4月21日、初めて南三陸町に入り、現場の惨状を目にしたときには、想像を絶する津波の力と、行方が分からない何千人という人々、それに混乱する行政や生存者の方々を目の当たりにして、言葉を失いました。
新幹線も止まったまま、在来線もどこまで行けるかわからない中で、自立的に動けるようにキャンピングカーで出かけましたが、いたるところで押し寄せられたコンクリートの瓦礫が視野をふさぎ、走れる道を見極めるだけでも大仕事でした。
そもそもこの日の訪問は、被災して隣町の登米市に避難した戸倉中学へ、緊急募金からの支援金をお届けするのが目的でしたが、知人の先生から「ソーラー発電を戸倉の避難所に支援してもらえないか」と打診され、緊急の追加支援を決めての出発です。
レクスタさんにも無理をお願いして、陸前高田市での設置作業の後に、まずは下見という段取りだったところを、いきなり太陽光発電用資材を運び込んでもらいました。
志津川から石巻方面へ国道45号線をたどり、さらに398号線へ折れて戸倉に入ると、被災を免れた最初の看板が、公設避難所の「志津川海洋青年の家」。その先のカーブを曲がったところが、民宿「津の宮荘」です。津の宮荘は海辺の小高い崖の上にあったおかげで被災を免れ、主人の須藤さん一家を初め、近隣の50人近くの自主避難所になっていました。
しかしこの日も交通網の寸断が大渋滞を呼び、戸倉にたどり着いたのは午後4時過ぎ。あたりには薄闇が忍び寄っています。やむを得ず工事は翌朝に変更し、津の宮荘と滝浜生活センターで、パネルの設置場所や配線を確認し終わったころには、避難所も瓦礫も残った家もそのまま、漆黒の夜のとばりに包まれていきました。
限られた数の発電機も、ディーゼルがなかなか手に入らないために、1~2時間しか使えません。水も食料も、あらゆるものが不足している中で、「暗闇は怖いです。とにかく、外で何が起こっているのか、これからどうなるのかわかるように、せめてテレビが観たい」という須藤さんの、切実な言葉が耳によみがえりました。
いつ電気が戻るかわからない中で、否応なしにやってくる夜。そのたびに、日の出を心待ちにしながら、余震の恐怖と闘い不測の事態に備える不安。「今日中に太陽光パネルをつけられなくてごめんなさい。でも明日には、お日様の力でテレビが観られるようになります」 とっぷりと暮れた398号線を東京への帰路に着きながら、闇に沈んだ津の宮荘に向かって頭を下げました。
鬼気迫る体験の数々
その後も戸倉とのご縁は続き、戸倉中学校の避難先への、つながり・ぬくもりプロジェクトからの太陽熱温水器の提供、水産業復興支援についての漁協の皆さんとの協議などを通じて、被災前の様子を地区の皆さんから伺う機会も増えました。
そしてこの頃は、少しずつ気持ちに余裕が出てきたのでしょう、皆さんの口から、震災当日の様子が語られるようになりました。それは壮絶な体験で、誰もが「紙一重で助かった」という言い方で恐怖を表しながら、その口調からは、2度と悲劇を繰り返さないために、何かしなくてはという強い想いが伝わってきます。
15m以上高さのある校庭まで、津波に洗われてしまった戸倉中学校。震災後の紆余曲折を経て、今は校庭にも仮設住宅が建てられ被災者の皆さんが暮らしていますが、自治会長を務める三浦さんのお孫さんは、震災当時、戸倉中学校の生徒でした。
第一避難場所に指定されていた中学には、いち早く近所の方たちも逃げてきたのですが、何と津波は背後の山から襲いかかってきました。後ろから車もろとも海へさらわれて、命を落とした気の毒な方も大勢いらしたそうです。「津波避難は海からの距離じゃありません。川を伝ってどこまででも上るから、川筋を見極めて」という忠告も、戸倉中学校の仮設住宅では避難路確保に欠かせないものとなりました三浦さんのお孫さんは、校庭に集合した全校生徒が、迫りくる津波の勢いに追われて、さらに高台へ避難するさなかに波に飲まれました。目の前に浮かんだ家の屋根に必死でしがみつきましたが、沖へ向かって流されはじめ、もうだめかと思った時に、ぐるっと渦を巻いた津波に押し戻されて、九死に一生を得ました。
津の宮荘の須藤さんたちは夕食の支度中に地震に会い、10mほど下の自宅へ帰ろうとしたらすぐ脇で側溝のコンクリートのふたが跳ね上り、見る間に噴出した海水に驚いて高台へ走りました。駐車場にあったマイクロバスも、振り返った時には流されていくところで、もしそのまま自宅へ戻っていたら命はなかったでしょう。
「びっくりして、この辺で一番高いとこまで駆け上がったけど、あのおかげで津波が来てることに気がついて、助かったんですよ。じゃなきゃ、大津波と言われても、防潮堤で見えないしピンとこなかった」
奥さんは、いまだに思い出すと背筋が凍るらしく、青い顔をしながら話してくれました。
志津川方面への道路は津波が引かず、自衛隊のヘリコプターが探しに来るまで数日間、身動きが取れませんでした。「戸倉中学にも向かえず、うちの宿が無事だったんで、取りあえずこの辺の人たちで食べ物を分けながら過ごしたけど、きっと南三陸町の行方不明一万人の中に、私たちも入ってたのよねぇ」
実際、中学にいた娘さんの安否確認もままなりませんでしたが、学校だし避難場所だから大丈夫と思っていたら、あとで大変だったと聞かされてびっくり仰天。
「お母さんたちは、布団で寝てられただけ幸せだよ」
お嬢さんと無事に再会を果たしてそう言われ、改めて事態の深刻さを噛みしめたそうです。
宮城県漁協志津川支所戸倉出張所の所長、阿部さんのご親戚も、海に流されながらも奇跡の生還を果たしました。
「大津波警報が出てるのは知ってたけど、『高さ3m以上』って放送から始まったから油断したんだね。逃げずにいたら津波が来て、親父は母屋の屋根、息子は離れの屋根に上ったまま流されて、だんだん離れてく。とうとう見えなくなって『これが今生の別れか』と観念したけど、二人とも沖に逃げてた漁船に別々に助けられたんだよねぇ」
海岸沿いの出張所にいた阿部さんたちは、沖合1キロ近い青島のさらに先まで潮が引き、海底が露わになったのを見て「ただ事じゃない」と直感し、すぐに高台へ向かったそうです。皆さんのお話を伺っていると、ふだんから海の様子を自分の目で確かめる機会のあるなしが、今回の避難の明暗を分けた感もあります。
津波が残したもの
震災から9カ月が過ぎようとしている今でも、町のほとんどを流された南三陸町の津波の爪あとは生々しく、被害の甚大さに復興計画の詰めや予算の手当は遅れがちです。民間団体としてのフットワークの軽さを、この未曽有の災害に生かそうと始めたWWF緊急募金でしたが、「つながり・ぬくもりプロジェクト」と協力して実現したご支援は、被災された皆さんに勇気と安心をお届けし、自然エネルギーに対する信頼はゆるぎないものとなりました。
震災7か月後の10月11日に、戸倉の皆さんから伺った緊急支援のその後です。
津の宮荘の須藤夫妻:
ろうそくや懐中電灯でない、このランプが灯った時には、心底ホッとしました。いつでも携帯が充電できて、外部と連絡できることが、どんなにありがたいがを忘れていました。電気が戻ってからもしばらくは、なんか安心だからって、2階の部屋じゃなくて、みんなでこの板の間に布団を敷いて寝てたんですよ。
今でも、携帯の充電に活用して、いつでも使えるようにしています。
滝浜生活センターの代表、後藤さん:
電気のまったくない夜というのはどれだけ暗いものか、なかなか想像がつかないと思います。目を開けても閉じても、見えるものが変わらないんです。夜が来るとみんな緊張のあまり眠れなくて、明け方、窓が白んでくると、やっと安心して少し眠る。
トイレも外灯があるわけでなし、娘も女房も私を待ってついてくる。明りの有難さが身に染みました。
いただいた太陽光発電は、地域の皆さんが大切に使い続けたいと言っています。
寺浜生活センターの代表、及川さん:
テレビでニュースが観られるようになって、ほんとに助かりました。それと携帯の充電。家が残った人たちも集まってきたから、多いときは100人近くが使っていました。
電気が戻った後に、個人の家に貸して欲しいと頼まれたんですが、これは地域の大事な防災設備だからと断りました。今は畑に置かせてもらっているパネルも、屋根の上に載せてしっかり整えようと思っているんですが、地区の大工さんが忙しくてねぇ…。
緊急募金の最後の支援先となった志津川高校通学路の街灯も、この時期になって生まれてきた新たなニーズと言えます。被災地でも当たり前ですが季節が巡り、震災半年を過ぎた秋分の日を越えると、急に日が短くなってきました。
瓦礫の分別が進んだ夏ごろには、きれいさっぱり更地と化した戸倉の辻辻に雑草が生い茂り、夕暮れには自然のたくましさをもの悲しい気分で眺めたものでしたが、今はそれどころではありません。
ズタズタになった海岸べりの道路は、9月に入ってようやくアスファルトが補修されましたが、防潮堤のほころびは土嚢を積んで高潮を凌ぎ、歩道はまだ崩れたままです。応急措置で引かれた電気は、その道路の縁を縫って集落の人家に届けるのがやっとで、街灯まで手が回っていません。
下校時間にはとっぷりと暮れてしまうそんな町中を、暗闇にまぎれて遠いバス停まで歩かなければならない、高校生や仮設住宅のお年寄り。沿岸のJR在来線はことごとく壊滅し、代替のバスも日に数本という中では、例えば雨がひどいからと雨宿りしていては、帰りのバスを逃してしまいます。
「ひとつでいいんです。せめて、あの一番冠水がひどい、JRの高架下のトンネルに、太陽光の街灯をつけてください」
4月の緊急支援のその後を取材しに津の宮荘を訪れた時、戸倉中学から志津川高校へ進学したお嬢さんの話をしていて、須藤さんから飛び出した新たな要望。つながり・ぬくもりプロジェクトによる、WWF緊急募金の最後の支援案件を探していた矢先でしたから、さっそく可能性を検討しました。
そして11月1日午後3時。志津川地区の真ん中を走っていたJR気仙沼線の、ほとんど跡形もない線路の脇でレクスタの皆さんと合流し、パネル設置場所や電灯の配線を確認して、設置に取りかかりました。
被災したとはいえ道路の一角、それに志津川高校への通学路でもありますから、設置の許認可の必要はありそうですが、今のところは緊急の仮設置としていざとなったら外してもらうことに。
パネルは邪魔にならぬよう崩れた線路脇の盛り土の上に載せ、電灯もうまい具合に流れ残った配管を利用して、3時間程度の作業で完成です。
別件で工事中は隣町にいて、日が暮れてから戻ってきた目には、真っ暗な中に浮かび上がった街灯が、文字通り希望の光に見えました。遠目にもはっきり分かる通学路の中継点として、雨の日は足元を照らす安心の明かりとして、これから何年も町を照らし続けることができます。
復興はやっと端についたばかりです。被災を免れた志津川高校に通う生徒たちは、その中心を担い、これからの長い長い道のりを、自分たちの足で歩いていかなくてはなりません。WWFジャパンの緊急募金が一助となり、「つながり・ぬくもりプロジェクト」の自然エネルギーが届いたことで、その道のりが少しでも平坦になることを願ってやみません。