シリーズ:クマの保護管理を考える(9)クマと人間の今昔 ~弘前藩史料より(1)
2013/02/13
北海道から九州まで、日本列島の山林に、古来生息していたヒグマとツキノワグマ。今、人とクマとのトラブルが、毎年各地で発生し、年によってはクマの「大量出没」が起こるなど、社会的にも問題になっています。しかしかつては、こうした問題は存在しなかったのでしょうか? 昔の日本人は、クマとどう向き合い、生きてきたのでしょうか。今から300年前の江戸時代、青森は弘前藩の史料より、その一端をうかがい知ることができました。
弘前藩史料が語るクマと人間
現在も多くのクマが生息し、同時に被害も多い国内有数のクマの生息地、東北地方。
今回お話を聞かせてくださったのは、宮城県多賀城市にある東北歴史博物館の学芸員、村上一馬さん。
東北地方を中心に近世日本の狩猟について歴史学の研究を続け、マタギに代表される猟師やクマ狩りに関する書物を多数発表しています。
その村上さんが6年もの歳月を費やして読み解いたのが、弘前藩史研究の基礎資料『弘前藩庁御国日記(国日記)」。
江戸時代の寛文元年(1661)から元治元年(1864)まで、藩内での出来事を詳細に記録した、全3,297冊に及ぶ膨大な史料です。
ここには、猟師によるクマの捕獲についての記録や、熊胆(ゆうたん:クマの胆のう。高価な薬の原料になる)や毛皮の上納の報告、さらに領民からの細かな報告や願書などが記載されています。
「熊荒」との戦い
さて、村上さんによれば、「国日記」にはこのような報告があります。
「元禄10年(1697)5月、月屋村と湯ノ沢(共に現在の青森県深浦町)で山菜採りをしていた女性2名がクマに襲われ、翌11年6月にも同深浦町に住む50余歳の十五郎という者が裏山に薪を取りに行った際にクマに襲われる。十五郎の子供と親類の5人が現場に駆けつけるが、クマは立ち上がって威嚇するばかり。立ち退こうともしないので、結局5人は町へ戻り、翌朝に足軽2人と町の者40人で現場に行ってクマを追い払った」
このようなクマによる被害を、当時は「熊荒(くまあれ)」と呼んだそうです。
国日記によれば、元禄8年から享保5年の25年間に70人の領民が、熊荒で死傷しました。
弘前藩は現在の青森県西部地域にあたりますが、今の青森県全体で1年間に報告される人身被害の数件であることを考えると、この数字がいかに多かったか、うかがい知れるでしょう。
もちろん弘前藩では、こうしたクマをそのまま野放しにはせず、駆除する施策を打っていました。
ほとんどの熊荒の事例において、いつ、どこで、誰が、どのような被害に遭い、どう対処したのか、また動員された猟師の名までが詳細に記録されていることから、この問題は領民を守るという意味でも、藩の利益を守るという意味でも重要課題の一つだったと考えられます。
しかし、その対応も最初から順調に進んだわけではありませんでした。
弘前藩の猟師像
クマへの対処に弘前藩が利用したのは、猟師の力でした。
そもそも、当時は「生類憐れみの令」が施行されていた江戸元禄時代。たとえ人身被害を起こしたクマであっても、猟師以外の者がクマを駆除することが禁じられていたのです。
そこで、藩は猟師を優遇して諸役(租税)を免除。このため浜や里など、山から遠い村でも猟師になる者が多かったそうです。クマを捕獲した実績のない名ばかりの猟師も少なくありませんでした。
こうした状況下でのクマ対応には、やはり困難がともなったようです。
「当初、クマに対処する弘前藩の猟師の技術は十分ではありませんでした。里に現れる荒れクマの駆除、とくに夏の活動的なクマの駆除については、試行錯誤を繰り返していたようです」と、村上さんも推察します。
この対応の難しさに輪をかけていたのは、猟師の装備でした。
興味深いことに、弘前藩の猟師はクマを獲る際、基本的にタテ(槍)一本でクマと対峙していたというのです。
このため、猟師がタテをクマに奪われて反撃にあい、重症を負ったという記録や、人身被害を起こしたクマの捕獲に失敗しているという複数の記録が、「国日記」には散見されます。
与力が鉄砲でクマを仕留めた、という記録が出てくるのは、享保5年(1720)のこと。
村上さんによれば、こうした例は、人の多い集落に出てくるクマに対し、藩が下級武士の足軽に鉄砲を持たせて対処するようにしたことによるものといいます。
さらに藩では、クマ狩りが不得手な猟師を解役し、別の農民に猟師の許可を与えるなど、対応のレベルを上げてゆきました。鉄砲の弾も最初は当たらないことが多かったようですが、次第に技量も向上。この頃から、効率的な対処が可能になり、熊荒自体も減少。最終的には国日記の記録の中に熊荒の記述は見られなくなってゆきました。
認められるクマ対策の改善
もう一点、弘前藩の施策により、クマと人とのかかわりに変化があったことが、「国日記」よりうかがえます。
元禄年間から享保年間にかけて、猟師の分布が平野部から山麓へ移行したことで、クマが人里に降りる前に、迅速に対応することが可能になったのです。
この頃の弘前藩の猟師たちは、ほとんどが狩猟のみを生業とする専門の猟師ではなく、基本的には田畑を持つ農民たちでした。
こうした人々が、人間の生活圏の最前線に、農林業を手掛けながら常駐するようになったことで、クマをはじめとする野生動物に対する、一定の牽制力が働き、野生動物の生活圏との間に、緩衝地帯が形成されていったと考えられます。
このように、弘前藩の「国日記」は、現代のクマ問題にも通じた点が数多く見られる貴重な史料です。ただし、そこに記された当時の人々の対応や、勝ち得た成果を現代と見比べた時、果たして現代社会の中に、その「知恵」は受け継がれているといえるでしょうか。
時代と共に変わるべき、クマや自然との付き合い
2012年、日本列島は北日本を中心に、多くのクマの目撃例が報告され、新聞やテレビなどでも取り上げられました。ニュース等では、都市近郊の住宅地や、時には大都市の中心部に出没したケースも報道されました。
相当数のクマが捕獲されたにも係わらず、これまでの大量出没とは異なる傾向を示した2012年。
通常、大量出没とされる年では、冬眠を前に、クマが食物を多く求める秋のシーズンに多くのクマが捕獲されます。ところが2012年は違いました。春以降、夏までの捕獲が例年にはないほど速いペースで増加し、関係者の間に「大量出没」という言葉が囁かれ始めましたが、秋に入ると一転、捕獲数は目減りしていきました。
夏の時点で「このままでは秋にどうなることか」、という懸念は、良い意味で裏切られた形になったのです。
こうしたクマの行動や、捕獲傾向の変化の原因は、まだよくわかっていません。それでも、人とクマの関係や、日本の山野における生きものの行動が、近年大きく変化してきているのではないか、という仮説に符号している可能性はあるでしょう。
生きものは絶えず、自然環境や人間の活動に影響を受け、行動を変化させてゆくもの。そのことを、私たちは十分に認識しなければなりません。そうでなければ、私たちがクマや自然と向き合っていく姿勢は、うわべだけの本質を欠いたものになってしまうのではないでしょうか。