日本で50年、世界で60年
活動のあゆみ
世界の活動の軌跡
1961年に
「世界野生生物基金(World Wildlife Fund)」として
発足したWWFは、当初の活動の目的であった野生生物の保全から始まり、
森や海などの自然環境の保全、
そして気候変動(地球温暖化)を含む地球の環境問題全体に、
その取り組みを拡大。
1986年には、
名称も「世界自然保護基金(World Wide Fund for Nature)」に
改めました(日本での改称は1988年)。
WWFの日本での活動
1961年に 1971年9月22日、WWFの事務局が日本にも開設されました。当時、世界で16番目に設立されたWWFでした。
1971年の設立まで
日本にWWFが設立されたきっかけは、1964年、東京オリンピックの際に来日した、オランダのベルンハルト殿下(当時、WWFインターナショナル総裁)が、日本の関係機関にWWFジャパンの設立を要望したことでした。
しかし当時は、その母体となるような、民間の自然保護団体が日本には無かったため、すぐに設立というわけにはゆきませんでしたが、その志はしっかりと日本に根を下ろすことになります。
(写真:WWFインターナショナルの初代総裁となった オランダのベルンハルト殿下(1911~2004年))
ベルンハルト殿下の来日から4年後、「WWFの一員にはなれなくても、日本国内でWWFの活動に協力できる組織を作ろう」と、当時東京動物園協会の理事長であった古賀忠道氏を中心とする十数名の人々が、WWFJC(野生生物保護基金日本委員会)を設立。
世界の野生動物保護活動に必要な資金を募る、募金活動を展開し、集まった支援金をWWFインターナショナルに送付したのです。
一方で、WWFも日本の自然保護に関心を向け、WWFアメリカやイギリスは、絶滅寸前の状態だった日本のトキの保護のため、2年わたり合計300万円近い支援を行ないました。
日本では折しも、1960年代以降、水俣病やイタイイタイ病に代表される公害の実態が次々と明らかにされ、国内でも環境問題が大きな社会問題となっていました。
そして政府は環境庁(現在の環境省)の発足を決断。世論もこの方針を強く支持したのです。
(写真:設立当初の事務局)
始まった取り組み
この環境庁の設置について、WWFジャパンの前身であったWWFJCをはじめとする国内の自然保護団体は、自然保護と環境保全に対する有効な行政を求める「環境庁設置のあり方についての声明」を発表しました。
当時生き残っていた野生のトキはわずかに11羽。ニホンカワウソも、すでにその姿はほとんど見られなくなるなど、日本でも自然環境の悪化と野生生物の絶滅の危機は、年々深刻になりつつあったためです。
そうした中、1971年7月に環境庁が発足。ここに日本の「環境行政」がスタートしました。そして同年、WWFJCは総会で、WWFジャパンとして新しく出発することを決議し、役員の選任を行ないました。
1971年9月22日、環境庁に遅れること2カ月で、WWFジャパン(当時は世界野生生物基金日本委員会)は正式に発足したのです。
当時の会員数は約1,500人。規模としては小さな団体でしたが、それでも、当時の日本で絶滅の危機に瀕していた野生生物の保護活動への支援を中心に、新しい活動の一歩を踏み出すことになりました。
(写真:WWFジャパン初代会長の古賀忠道氏(1903~1986年)と設立当初、サポーターの皆さまに活動をお伝えしていた会報誌。 会報誌の歴史も50年にわたり続いています。 )
1970~80年代
絶滅の危機にある野生生物を守れ
設立当初、WWFジャパンが力を入れた取り組みは、大きく2つありました。
一つは、WWFインターナショナルへの寄付金の送付などを通じた、世界の絶滅危機種の保全活動の支援。
もう一つは、トキやコウノトリ、ニホンカワウソ、タンチョウ、アマミノクロウサギ、ゼニガタアザラシなど、当時日本で絶滅が心配されていた、国内の野生動物の保全です。
設立初期の活動の一つとして、1965年に発見されたばかりの、イリオモテヤマネコの保護・調査支援も実施。1973年からIUCNの一員として行なった調査では、大まかな生態と生息個体数(58~77頭)を推定し、1977年、「イリオモテヤマネコの保護施策推進についての要望書」を、環境庁、文化庁、沖縄県庁に提出しました。
(写真:タンチョウとアマミノクロウサギ。WWFジャパンの設立時から、日本を代表する絶滅危機種でした。)
また、日本政府に対しては、絶滅のおそれのある野生生物種の国際取引を規制する「ワシントン条約」を批准するよう再三にわたる要望を実施。
1980年の日本の批准を後押ししました。
さらに1980年代には、WWFインターナショナルが、ジョージ・B・シャラー博士らの協力のもと、当時、推定個体数が1,000頭以下といわれていたパンダを絶滅から救うために展開した「WWF・中国ジャイアントパンダ・プロジェクト」にも、日本の事務局として参加。
1983年から翌84年にかけて、国内で「パンダを守ろうキャンペーン」を展開し、ボーイスカウト協会など多くの団体や著名人、関係省庁の協力を得て、募金活動や作文コンクール、記録映画「パンダを救え!」の上映、シンポジウムなどを開催しました。
(写真:「パンダを守ろうキャンペーン」とワシントン条約の批准を求める活動を展開)
1990年代
「持続可能な社会」を目指す取り組み
1991年、設立から30年を迎えたWWFインターナショナルは、IUCN(国際自然保護連合)、UNEP(国連環境計画)とともに「新・世界環境保全戦略かけがえのない地球を大切に:Caring for the earth : a strategy for sustainable living」を発表しました。
この戦略で示した、持続可能な社会を実現するための、9の原則と、132の行動規範は、現在の「SDGs(持続可能な開発目標)」の考え方や指針を、ほぼ内包するもので、この後、世界の環境保全の基本的な概念として、さまざまな取り組みをリードすることになります。
(写真:「新・世界環境保全戦略」と1992年のブラジルでの「地球サミット」への参加)
WWFジャパンが、日本でこの「持続可能」な社会を実現する活動を開始したのも、1990年代のことでした。
その大きな例が、「FSC🄬認証」や「MSC認証」といった、持続可能な木材や紙、水産物の国際認証を日本に導入する活動です。
これは、日本が大量に輸入し、消費しているこれらの産品を、環境に配慮して生産されたものに切り替えることで、原産国の森や海を保全する取り組みでした。
(写真:FSC認証マーク)
また当時、WWFジャパンが力を入れていた、ウェットランド(湿地環境)の保全活動でも、湿地の「ワイズユース(賢明な利用)」が国際的な主流の考え方となりました。
こうした中、WWFジャパンは、1991年の「日本湿地ネットワーク」の設立支援や、1993年の釧路での第5回ラムサール条約会議の開催に合わせたウェットランド保全キャンペーンを全国で実施したほか、藤前干潟、諫早湾干潟など開発の危機にあった干潟の保全に尽力。
国際的なつながりのもと、国内外の貴重な自然と野生生物を守る取り組みを展開しました。
(写真:干拓事業によって失われた九州有明海の諫早湾干潟)
21世紀に向けて
1990年代以降になると、学校やニュースなどでも、地球環境問題が取り上げられ、問題意識が高まると共に、さまざまな活動が行なわれるようになりました。
しかしその一方で、世界のグローバル化に伴い、環境問題はより複雑になり、他のさまざまな社会的な問題とも絡みあって、解決の難しい問題となってきました。
(写真:海部俊樹首相に面会し、持続可能な社会の重要性を訴える WWFインターナショナルのクロード・マータン事務局長と WWFジャパンの大来佐武郎会長(いずれも当時))
その代表例が気候変動、すなわち地球温暖化です。
石油や石炭の消費によって生じる温室効果が、地球規模で環境を変えてしまうこの問題は、直接自然を破壊する開発などとは異なる、目には見えない環境問題。
解決にもエネルギー政策の改善という、自然や野生生物とは一見関係のない取り組みが求められます。
1990年代の後半からは、こうしたより複雑かつ規模の大きくなった環境問題が、WWFの取り組む主なテーマとなってきました。
(写真:1997年の国連気候変動会議「京都会議」)
そして、その規模の深刻さを伝えるため、WWFは1998年に初めて、『生きている地球レポート(LivingPlanetReport)』を初めて発表しました。
その後、2年ごとに発表されることになるこの報告書は、次の2つの点を主に指摘するものでした。
1)地球全体の生物多様性が1970年代以降、どれくらい劣化しているか
2)人の消費による圧力が、どれくらい地球環境に影響に負荷を及ぼしているか
そして、最初の報告書が出された当初から、地球環境は生物多様性の豊かさを30%以上失い、人の消費は地球が1年間に生産し吸収するさまざまな恩恵を超える規模で、拡大していることが指摘されていました。
(写真:WWFのLiving Planet Report(2000年版)
生物多様性の劣化を示す「生きている地球指数(LPI)」と
人による環境負荷を示す「エコロジカル・フットプリント」)
2000年代
多様化、重層化する環境問題への挑戦
WWFが『生きている地球レポート』で示した、過剰な消費行動を変え、持続可能生産と消費を実現していかなければ、環境の悪化の傾向は変えられない―
2000年以降、WWFジャパンもこの認識を基に、従来よりも幅と対象を広げた活動を展開しました。
FSCやMSCなどの持続可能な認証については、国内だけでなく、極東ロシアやインドネシア、中国など、日本が木材や水産物を輸入している生産国でも、認証の取得や適切な林業、漁業の管理推進に取り組みました。
同時に、渡り鳥やオランウータン、シベリアトラなど、現地の野生生物や、その生息環境の保全も促進。海外のWWFとも深く連携した、規模の大きなプロジェクトがいくつも実現するようになりました。
(写真:トラの生きるスマトラ島の熱帯林保全に、 協力して取り組むWWFインドネシアとWWFジャパンのスタッフたち)
また、地球温暖化についても、その脅威の証言を世界各地から集めた「温暖化の目撃者」プロジェクトを展開。一方で、太陽光や風力といった再生可能な自然エネルギーによるエネルギー社会の実現を、より強く日本政府や産業界に働きかけるようになりました。
1980年代から取り組んできた、沖縄を中心とする南西諸島の自然保護活動も、2000年以降、大きく転換してきました。
従来のサンゴ礁や生物の調査などに加え、地域の人々が主体となった保全活動を全面的に支援。WWFのプロジェクトが完了しても、地域で保全が継続されるよう、科学的な面だけでなく、文化や伝統にも注目した、持続可能性を追求する試みが行なわれたのです。
2000年4月に、多くの方々のご支援のもと、沖縄県石垣島の白保に開設された、WWFサンゴ礁保護研究センター「しらほサンゴ村」は、そうした新しい活動の拠点となりました。
(写真:温暖化とエネルギーをテーマに実施した2つのイベント「地球温暖化の目撃者」「Green Power week」と石垣島白保のサンゴ礁)
2010年代
愛知目標と変化する環境問題
21世紀に入ってから10年が経つと、環境問題への認識や関心はさらに高まり、捉え方や取り組みも、さらに変化していきました。
各国の利害が衝突するさまざまな国際条約の会議では、一進一退を繰り返しながらも、毎年のように新たな決議がなされ、それが各国政府の政策に徐々に反映されてゆきます。
2010年には、WWFジャパンからも多くのスタッフが参加した、名古屋での「生物多様性条約」第10回締約国会議で、「愛知目標」が採択されました。これは世界の国々が交わした、生物多様性保全の目標を定めた約束です。
(写真:2010年に愛知県名古屋市で開催された生物多様性条約の第10回締約国会議(CBD-COP10))
さらに企業の中でも、環境保全活動は社会貢献のような慈善活動ではなく、自らのビジネスに必要な要素、投資の対象と見るところが増えてきはじめました。
しかし、『生きている地球レポート』が示す、生物多様性の豊かさの劣化は、その後も改善されることなく、下降線をたどり続け、絶滅の危機にある世界の野生生物も、2010年にはついに1万8,000種を突破。
「新・世界環境保全戦略かけがえのない地球を大切に」を発表し、WWFが「持続可能な社会」の実現を訴え始めてから20年。
このままでは、未来の世代に大きな負荷と困難を強いることになります。
(写真:年に1度、世界中の人と共に地球の自然と環境の未来を考える、WWFの国際環境イベント「アースアワー」。2007年に始まったこの取り組みは、日本でも毎年開催されるようになりました。)
2分動画:生きている地球レポート2018アニメーション
東日本大震災からの復興の中で
そうした中で日本を襲ったのが、2011年3月の東日本大震災、そして、福島の原発事故でした。
WWFジャパンでは震災直後から、被災地の支援を目的とした募金を開始。現地にそれを届けると共に、これからの震災復興の中で、自然環境の保全や持続可能な社会づくりにつながる取り組みを模索し始めました。
その中で出会ったのが、宮城県南南三陸町戸倉地区で、名産品のカキの養殖を手掛ける方々です。
(写真:宮城県南南三陸町戸倉の海)
戸倉は津波で大きな被害を受け、養殖設備が全壊。しかしそれを機に、海の汚染にもつながっていた過密養殖をやめ、新たな海との共生の在り方を探っていました。
そこで、WWFジャパンはこの戸倉の取り組みへの支援を開始。地域の方々の大変な努力により、海の環境は大きく改善され、養殖カキの生産量も収益も震災前より大きく向上し、2016年には持続可能な養殖の国際認証「ASC認証」の取得も実現したのです。
これは震災復興を機会に、環境の保全と人の暮らしの改善を実現した、世界的に見ても重要な「持続可能な社会づくり」のモデルとなりました。
(写真:ASC認証を取得した名産のカキ)
3分動画:被災地の海から日本初の「ASC認証」漁業が誕生
福島原発の事故も、温暖化対策を進める上で重要な契機となりました。
原発の安全性が問われる中、WWFジャパンは省エネと再生可能な自然エネルギーで、2050年には二酸化炭素の排出をゼロに抑える「脱炭素社会に向けたエネルギーシナリオ」を急遽制作。
化石燃料への依存を高める政策に警鐘を鳴らし、未来志向のエネルギー社会の在り方を提示しました。
(写真:2050年に二酸化炭素の排出ゼロを実現するWWFジャパンの「脱炭素社会に向けたエネルギーシナリオ」)
コロナ禍とSDGs、
これからの時代に向けて
環境の保全と、持続可能な社会の実現を求める、WWFの提言やメッセージ、また取り組みによって実現した活動の事例は、なかなか大きく注目されることはありませんでした。
しかし、その状況は大きく変わりつつあります。
WWFジャパンが10年前に訴えた「2050年までの温室効果ガスの排出ゼロ」を、今では日本政府自らが表明するようになり、産業界や経済界、金融界も、一気にその方向に動き始めています。
(写真:地球温暖化の影響をうけるホッキョクグマとトヨタ自動車とのパートナーシップで2016年に実現した、持続可能な森林資源の利用を目指す「生きているアジアの森プロジェクト“Living Asian Forest Project”)
2015 年に採択されたSDGs(持続可能な開発目標)は、社会的にも広く知られるものとなり、あらゆるビジネスもこれを無視できなくなりました。
その一方で、異常気象によって、毎年のように国内各地で生じている災害は、地球温暖化がもはや身近で深刻な、取り組まざるを得ない問題であることを痛感させています。そして、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック。
自然界に存在したウイルスが、乱開発などによって人や家畜に接触し、世界に広がったこの感染症の問題は、環境破壊が2020年の地球上で、もはや人の命に直接かかわる問題になったことを物語っています。
(写真:新型コロナウイルス感染症に続く、新たな感染症のパンデミックを防ぐカギとなる「ワンヘルス」と生物多様性の保全をテーマに、2021年2月にオンライン「人と動物、生態系の健康はひとつワンヘルスシンポジウム」を開催)
1分動画:次のパンデミックを防ぐカギ「ワンヘルス」とは?
今も深刻化が続く環境問題。
しかし、この危機に対し、国際社会は気候危機を止める「パリ協定」と、生物多様性を守る「2030年目標」を掲げ、地球の未来を守りぬく勝負の10年を迎えようとしています。
2021年、設立から50年を迎えたWWFジャパンも、人と自然が共存できる未来をめざし、この新たな10年の活動に取り組んでゆきます。
日本の自然保護を支えた取り組み
WWFジャパンは、その前身である野生生物保護基金日本委員会(WFJC)の時代から40年間にわたり、日本各地で自然環境や野生生物の保全、研究を行なっている市民グループや研究者を資金的・広報的に支援する「助成事業」を行なってきました。この取り組みで助成した自然保護活動の件数は、延べ1,000件にのぼります。
また、この助成金は、WWFジャパンのサポーターの皆さまよりお寄せいただいた寄付金により実施することができました。
ご支援くださった個人・法人サポーターの皆さま、助成事業を通じてWWFと共に全国各地で活動を進めてくださった市民団体や研究者の皆さまに、この場をお借りして心より御礼申し上げます。
WWFジャパン助成事業一覧(1969年~2008年)
環境保全の輪を
より大きく広げていくために
国連等の機関ではない、
民間団体のWWFの活動は、
公的資金に頼らず、
多くの皆さまからの
ご寄付や募金、会費等のご支援によって支えられてきました。
人と自然の未来の道筋を決定づけるため、
特に重要となるこれからの10年に向け、
環境保全の輪をより大きく広げていくために。
ぜひ皆さまのご支援をお願いいたします。
人と自然が調和して
生きられる未来を目指して
WWFは100カ国以上で活動している
環境保全団体です。