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マンガで感じる生物多様性のメインビジュアル

コミック・ダイバース

どこかで耳にしたことはあるけれどよくわからない。大切なことだとは思いつつも実感を伴わない。「生物多様性」について尋ねると、そんな言葉が聞こえてきそうです。けれど生物多様性は私たちにとって非常に身近でかけがえのないもの。WWFジャパンは名作漫画から私たちと生物多様性のつながりを実感する「コミック・ダイバース(COMIC DIVERSE)」をはじめます。

生物多様性って?

WHAT IS BIODIVERSE?

地球には、無数の生命が息づいています。そこには人間のほか、多種多様な動物、植物、菌 類やバクテリアなどが含まれ、こうした生命のつながりを「生物多様性」と呼びます。これらの生きものはただ一種だけで生きていくことはできず、他のさまざまな生きものと直接的、間接的につながることで複雑な生命の環を織り成します。「生物多様性」とは、地球という一つの環境そのものであり、すべての生命を包含する言葉に他なりません。

選書一覧

とんから谷物語紙面
とんから谷に住むリスのジロは、リス同士の戦いに負けて一家で逃げる途中、家族とはぐれてしまう......。ジロを主人公に、ダムの底に沈んでしまった「とんから谷」に住む動物たちを描く。

とんから谷物語

手塚治虫

[講談社]


 私たちが幼い頃には生物多様性という言葉も概念もありませんでした。けれど私たちは物語を通じて、世の中にはいろいろな生き物がいることを認識していました。そしてその生き物には現実の生き物もいれば、人の意識のなかで生きる架空の生き物もいたのです。

 私がはじめて漫画と出合ったのは小学校1年生のことです。小学生になるので毎月雑誌1冊を買い与えようと両親に連れられた書店で手にしたのが、創刊間もない月刊漫画雑誌『なかよし』(講談社)でした。そこで手塚治虫先生の連載されていた『とんから谷物語』と出合います。まさにこの作品は、生物多様性、環境問題を含め、文明と自然との対立を小学生向けの漫画として描いています。学校の教科書ではないけれど、自然と物語を通じて社会問題に親しめるように可愛い絵で描いてくださっていました。

 物語の舞台であるとんから谷は、作中で戦後復興期から高度成長期にかけて実際よくあったようにダムの建設で水の底に沈んでしまいます。そこで谷に暮らす生き物や植物が擬人化され、物語の中で意見を交わします。動物や植物たちにそれぞれの思いや立場があり、それ故に反発し合う。その意見が入り乱れる姿が大変賑やかなのですが、読者はそれを漫画という形だから素直に受け止めることができます。

 このように他の生命体を擬人化して描く手法は古典的とも言えますが、私たちはやがて成長するとともに物語で親しんでいた動物を搾取していることに気がつくのです。

 私には小さい頃から絶対に食べ残せなかった食材があります。それがしらす干し。大きな魚の切り身や肉の一片は私一人が奪った命ではないと言い訳できるけれど、しらすは無数の小さな命を私一人がいただくもの。いまもそこに大きなプレッシャーを感じます。私たちが生きていくことは残酷な側面が常につきまとい、空腹を満たすだけでなく、味わいたいという欲求ももっている。酷いことではあるけれど、生きるとはそういうことだと自覚することが必要です。

 私が小学生の頃に学んだ生態系の学説もいまではずいぶんと違っていることが多いのですが、海から枝分かれした生命の果てに私たちがいるわけです。昆虫も、遠い昔の先祖でつながっているかもしれないと想像を巡らせます。私たちは一部の昆虫を害虫と表現するけれど、彼らから見るとこちらこそが非常にひどい生き物かもしれない。人類が地球上における最大の害であるという設定はSFで使い古されたものですが、つまり私たちは私たちのものの見方を真剣に考えなければならない。昆虫がいなければ森は循環せず、豊かな土壌ではなくなるといいます。豊かな植物分布は彼らとともにこそある。広い地球に無駄はなく、みななにかの必然があって存在している。なんと素晴らしい仕組みで、うまくできているんだと感嘆してしまいます。だからこそ、地球における生命の循環を人間の都合で排除してはならない。

絶滅動物物語紙面
人間によって絶滅させられた、ステラーカイギュウ、モーリシャス・ドードー、ニホンオオカミなどの動物や鳥たち。絶滅に至る経緯と、いったい人間が何をしたのか、そのおこないが描かれる。

絶滅動物物語

うすくらふみ・今泉忠明

[小学館]

 生物多様性とはつまり想像力なのではないでしょうか。私たちはたまたま人間に生まれ、言葉を使って他者とコミュニケーションを取り、この地球のすべてを分かったつもりで暮らしています。けれども祖先がどこか枝分かれしていたら別の生き物だったのかもしれない。そのうえでもう一冊薦めたいのが、『絶滅動物物語』です。この作品は言葉ではわずか数行で表現されることを、漫画では絵でもって雄弁に伝えることが出来ることを示す好例です。タイトルにあるように絶滅した動物にまつわる物語ですが、絵であれば絶滅した生物が表現できる。あらためて絶滅の経緯を物語で見せられると思わずため息がこぼれてしまうのですが、子どもにこそ読んでもらいたい。理屈で理解できることと、そこに感情がついていくことは別です。こうした作品こそ読者に届ける意義があると思える作品です。

 同時に私たちはいわゆる擬人化されたキャラクターに慣れ親しんでおり、そこにも人間の想像力が働きます。本来記号でしかないキャラクターに感情移入ができる能力を持っていることは人間の素晴らしい可能性です。生物多様性というのは、生物は多様であり、その多様性こそが地球を豊かにしていることを文字から理解できます。けれど現実の生活になかなか結びつかない。だからこそ想像力が欠かせません。たとえばイルカやクジラは賢い生き物だから殺してはいけないといいますが、その知性という基準は極めて人間の物差しで見ているもので、私たちには理解できない何らかの能力でコミュニケーションを取り合う生物がごまんといるわけです。このように人間主体の考えで、私たちは多くの間違いを犯してきました。

 この世のありとあらゆる物語は、もし自分が他者であったらという感情移入ができるもの。つまり物語に親しむことは他者の立場を疑似体験することなのです。それは人の立場に限らず、あらゆる生命の立場でものを考えることも促します。私は思春期の頃にフランツ・カフカの『変身』を読み、不条理よりも嫌悪感が先に立ちました。主人公が別の生物に変身する設定はおとぎ話に限らず、神話、伝説にも多数見られます。ここで私は嫌悪するものと向き合わねば、物語を理解することができないのです。

 漫画はとても感情移入がしやすいツールです。キャラクターと設定が荒唐無稽でも、そこにリアルな心情を描くことで物語として成立します。客観的な説明はなくても、登場するキャラクターの台詞で物語は進行していきます。そこにニュートラルな立場がなくとも物語は進行していくし、どんな短い物語にもいくつもの主張と正義があるものです。そこに登場する複数のキャラクターの主義主張にあるからこそ漫画は面白い。私は子どもたちに自分で設定を考え、漫画を描いてみてほしいとの思いをずっと抱いています。対立する意見を持ったキャラクターがいるほどにドラマが生まれていき、作者はそれぞれの正義感や意見の違いに向き合います。想像力はあればあるほど人に優しくなれます。その想像力を鍛えることは、生物多様性の理解をも促すものではないでしょうか。

里中満智子・談

へんなものみっけ!の紙面
市役所から、博物館に出向になった薄井透が、鳥類を研究する清棲あかりと衝撃的な出会いを果たす。たくさんの生物標本を収納する博物館の仕事を描きながら、100年後の未来を想像させる。

へんなものみっけ!

早良朋

[小学館]

 交通事故のカモシカを解剖、まる五日間森に潜んでフクロウを捕獲、砂浜に3年埋めた鯨で骨格標本を制作。博物館の仕事とその舞台裏を描く『へんなものみっけ』は、自然科学のおもしろさを生き生きと伝える作品だ。山へ海へと生き物たちを追いかける研究者たちの奮闘を見ていると、自分でも探して観察したくなる。興味・関心が刺激され、もっと詳しく知りたくなる。

 事務員の薄井と鳥類研究者のキヨスが主人公。ほかにも海洋生物、植物、昆虫などさまざまな分野の研究者が登場する。博物館の庭に集う花見のシーンは印象的だ。それぞれの研究分野について楽しそうに語りあう彼らの様子から「好き」が伝わってくる。きっと小さい頃から鳥が、動物が、虫が、魚が大好きで、あの頃のワクワクを持ち続けたまま大人になって、いまここにいるんだとわかる。

 各エピソードには「好き」から生まれた好奇心と熱意、科学的知識が散りばめられている。作者の早良自身も大学で動物を研究し、長く博物館で働いた方だから、本作が発する「好き」にはリアリティがある。理屈抜きに「好き」という根源的な思いは、生物多様性について考えるときにもとても重要なのではないか。

 地球の生態系は、数百万種の生物が複雑に関連し合い絶妙なバランスを保ちながら成立している。食糧や水、気候の維持など、私たちは生態系の恩恵を受けなければ生きられない。生態系システムの全体はあまりに複雑で誰も変化を予測できない。ひとつの種が消えるだけで、予想外の大きな影響をもたらすこともある。だからどんな種も絶滅させることなく、全体をなるべくそのまま保っていこうというのが生物多様性保全の考え方だ。

 たとえば、世界の食料の9割を占める100種の農作物のうち、2/3以上がミツバチなど花粉媒介者の存在が不可欠と言われる。仮に花粉を媒介する生き物がいなくなったら、風景は変わり、食糧が不足し、人間社会は混乱に陥るだろう。ミツバチがいなくなったら、人間はとても困る。でも、ある生き物の絶滅を、人間が困るか困らないかで語るのってどうなんだろうか?人間への影響や生態系システムへの影響は確かに重大だが、すべての種はそれ自体がそもそも尊いのではないか?「好きだから、守りたい」そのくらいシンプルなところから出発してもいいんじゃないか。「好き」は時として理屈を越えるから。

 1巻の第1話に、のちに博物館の原型となった「ヴンダー・カンマー(驚異の部屋)」の話が出てくる。かつてヨーロッパで作られていた珍品・奇品を集めた部屋のことだ。研究のために収集したのではなく、「面白い」や「美しい」、つまり「好き」を追求した結果、博物館という後世につながるギフトとなった。おそらく、その驚くべき成果は「義務感」ではなく「好き」が原動力だったからこそ生まれたはずだ。「好き」は強い。努力を努力と感じず楽しんでできるとき、人はより大きな力を発揮する。

 個別の生き物への「好き」が、生物多様性全体を考えるきっかけになるかもしれない。これはその小さな「好き」を育む貴重な作品だ。

荻原貴男

ふらり。の紙面
二尺三寸(70cm)の歩幅でひたすらに江戸の町を歩く主人公は、トビやトンボ、アリやネコ、カメの目を持ち世界を見る。人間の視点を超えて、川の底や遥か空の上から見える世界を描く。

ふらり。

谷口ジロー
『ふらり。(谷口ジローコレクション)』より

[ふらり]

 力強く生える雑草で足を切ると痛い。うっかり虫を潰してしまうと臭い。なんかよくわかんないけど痒い。東京出身とはいえ、多摩地方の緑豊かな場所で育ったので、その手の痛い・臭い・痒いを身体が覚えている。親から「ちょっとそのまま洗濯機に入れないでよ」と頻繁に言われ、脱いだ洋服を風呂場にある洗面器に入れて、いったん水に浸けてゆすいでから洗濯機に入れた。正直、適当にゆすいだだけだったので、よく怒られていた。

 それくらい毎日泥だらけで帰ってきたのだろう。石をひっくり返すとおびただしい数のダンゴ虫がいる。フンにハエがたかっている。木に蜜を塗ってカブトムシを待ち構えているとカナブンばかりがやってくる。毎日のように飽きずに周囲を駆け回っていたのは、ずっと予想外のことが起きたから。草むらを駆け回った後の、なんともいえない匂いを鼻が覚えている。

 爪の奥のほうに土が入ってしまい、なかなか落とせなくなっちゃうような生活から遠ざかって久しい。ものすごく大げさにいえば、あの頃は、人間が管理できている世界なんてほんの少しの部分であって、未知の暮らしにあふれている実感があった。家で宿題をしていたら、なぜか膝の上に毛虫がいた。奇声を上げながら親の元に行くと、奇声を返されてしまった。

 江戸の町を同じ歩幅・二尺三寸(70㎝)で歩く男、そして、その視線を追いかけるように町を描写する『ふらり。』を読んでいると、まったく知らないはずの江戸時代の匂いがたちこめてくる。生活の匂い、そして、生き物の匂いがする。歩いている最中に亀を売っている屋台を通りかかると、大きな亀を十文で買った男は、「もとはといえば放生のために捕まえてきたもの それを人が買って解き放つ よおく考えると どこかおかしい」と言いながら、亀を川に放つ。「もう捕まるなよカメさん!」と言いながら。

 足元に黒蟻の行列がやってきた。自分の体の何倍ものの木の葉をかついでいる様子に感心しながら、「もしかすると わしもおまえたちと同じかもしれんな」と呟く。蟻は、クワガタムシの死骸を解体しながら、みんなで運んでいる。蟻の目線を想像する。

 「飛べない虫たちにとって この地平は 果てなく 途方もない世界に見えているのかもしれないな」

 この世界は、無数の生き物で構成されていて、それらは、それぞれの目線を持っている。私に覗かれたダンゴムシは私をどう見たのだろう。カブトムシを待っている私にがっかりされたカナブンの気持ち。生物多様性というのは、生物がたくさんいる状態を守りましょうとの意味合いで使われるが、自分の感覚としては、自分とは違う生き方、目線を持っている存在がたくさんいて、そっちの目線を想像したら世界の見え方が変わるよね、なんて感覚がある。ちょうどこの作品の男が蟻ではないように、自分はダンゴムシではないのだが、あっちの目を想像してみることが生物多様性の入り口ではないかと思う。最近、すっかり忘れていた、あの、なんともいえない匂いを取り戻したい。

武田砂鉄

Petshop of Horrorsの紙面
アメリカのチャイナタウンでD伯爵と名乗る美青年が経営するペットショップ。そこには必ず訪れる客の望み通りのペットが用意されている。そのペットがもたらすものは叶えたかった夢?破滅?甘美な罠?そこに訪れた者は運命や人生を変えてしまう。人間と生きものとの間に生じるドラマ。

Petshop of Horrors

秋乃茉莉

[宙出版]

 幻獣や絶滅した動物などを扱う架空のペットショップを舞台とする『ペットショップ・オブ・ホラーズ』は、ほとんどが一話完結型の作品です。毎回ペットを求める客がやってきては特定の条件で動物を渡すのですが、だいたいみながそれを守らずに大切なものを失います。彼らとともに渡されたお香を焚くとペットが人間に見えてきたりしますが、擬人化されたペットとのあいだにドラマがあり、教訓めいた内容とともに人の滑稽さが描かれます。対して動物はある意味で衝動に正直で、人の物差しで測ることができないことを繰り返し描く。動物が本来的にもつ性質を基軸に話が展開されます。

 うちには兄弟猫がいるのですが、それぞれに衝動があり、性格もまったく違います。種による基本的な性質はあるけれど、それとは別のレイヤーで個別のパーソナリティがある。個体差という言葉はとても便利ですが、それを額面通りではなく理解したいという思いがあります。作中で動物は擬人化され、あやかしのような存在として描かれます。僕自身もうちの猫をつい人間の感覚で捉えようとしてしまうのですが、だいたい思うようにいきません。僕は基本的に枠組みを破壊することがとても好きなので、仕事のやり方も花との接し方も枠組みにあまり捕らわれず生きてきました。一般的なルールを悪いものだとも思っていないけれど、なぜそれが必要なのかを考えてしまう。その意味で独自の視点を養うことを大切にしたい。言葉が通じないもの、意思の疎通ができないものを観察することでいろいろなことが学べます。観察は対象を理解するのに欠かせませんが、対して人間は自ら説明してくるのでほとんど観察ができない。説明されると、言葉の方が強く残ってしまいますね。

 僕は基本的に生物を殺しません。特定の虫が減少することで植物の繁殖のスピードが落ち、その循環でさまざまな生物の食も損なわれているという話を聞きます。人は花束を見て、そこになんの花が入っているかを覚えていないことがほとんど。そもそも花が畑からきていることは理解していても、花を花束のようなイメージで捉えていたりします。僕は花束を作るときに少しでも土を感じてほしいと思っていて、植生的なデザインを心がけています。時間によってどこが開くか、伸び方なども考慮してブーケやアレンジメントに落としこむ。それでも漠然と色と形と質感だけが人の心に残るのは、言葉だけが心に残ることとよく似ています。

 たとえば殺虫剤を使わない花農家は、特定の花が好きな虫を避けるために、その虫がさらに好きな花を作ることで虫の害を回避するルートを作ることがあります。その行程はとても大変で簡単な言葉では表現できません。言葉はとても危険な存在。みな、それほど言葉を大切にしていないのにすごく信頼している。もやもやしたことも特定の箱に入れると、自分がいいものになった気持ちになれるから。僕は言葉が通じないものや目に見えないものがすごく好きなので他の生物が好きなのかもしれません。独創的で独立心をもち、自立していこうとすると、同時に他に対して博愛的であることがとても重要です。それを教えてくれる一冊だと思います。

越智康貴・談

釣りキチ三平の紙面
三平三平は、麦わら帽子と東北弁がトレードマークの釣り大好き少年。 一平じいちゃんや、謎の釣り名人・魚紳さんに教わりながら、海や川や湖で釣りを楽しむ。釣りを通して、自然に関わる上で忘れたくはないことを描く。

釣りキチ三平

矢口高雄

[講談社]

 真っ先に思い浮かんだのが、子どもの頃に出合った『釣りキチ三平』です。ずいぶんと久しぶりに読み直したのですが、当時を鮮明に思い出すことができました。本作はたびたび有明海を舞台にしており、私はこの漫画を通じてはじめてムツゴロウと有明海に出合ったのです。

 1990年代の終わりから2000年代初頭にかけて、渡り鳥や干潟の保全プロジェクトで佐賀県鹿島市に通いました。ここは作中にも描かれる街です。干潟を守りたいとの思いから始まったプロジェクトですが、通ううちにいろいろな生き物を知ることになります。ムツゴロウ、ワラスボ、アゲマキ、エツ……これらはどれも美味しく、干潟はそれらが生育するのに優れた環境でもありました。1997年4月、同じ有明海の長崎県諫早湾が293枚の鉄板で締め切られます。ここにも通い続けますが、干潟でとんでもない数の生物が死んでいく姿を目にすることとなります。私たちは環境保全NGOとして、渡り鳥の国際的な飛来地が失われたと主張しました。それは確かに大事な一面ですが、ここは人々が暮らしを営む漁場でもあったのです。諫早湾の干潟が失われ、渡り鳥の飛来地が失われ、人々の暮らしが失われました。

 釣りの物語であり、ライバルと競い合う物語であり、生き別れた父を探す物語である『釣りキチ三平』。しかしその物語はやはりドラマチックな漁法や生きものがいて初めて成り立つもので、そこに人々の想像力を刺激する要素があります。有明という海と人の暮らしと魚があって、初めて物語が成り立つことを描ききった矢口さんの視点にはあらためて驚かされました。

 生物多様性には、種の多様性、生態系の多様性、遺伝子の多様性の3つの視点があります。しかしそれぞれに1つの視点で捉えられがちで、包括的に見られることが少ない。しかし『釣りキチ三平』はそれらすべてを繋げて描いています。環境保全活動の難しさは、人々が環境との繋がりを感じにくいことにあります。その問題の重要さを伝える活動自体がある種のパラドックスを抱えており、そもそも繋がりを感じられないので重要だと思わない。だからこそ私たちWWFは、その繋がりをみなさんに感じていただきたいのです。

ダーウィン事変の紙面
ヒトとチンパンジーの間に生まれた「ヒューマンジー」のチャーリー。人間の両親のもとで15年育てられ、高校に入学することに。友人のルーシーと共に差別をはじめ人間が抱える問題に向き合う姿を描いたヒューマンドラマ。

ダーウィン事変

うめざわしゅん

[講談社]

 もうひとつは『ダーウィン事変』です。主人公は人間とチンパンジーの間に生まれた交雑種のヒューマンジー、チャーリーです。第一話でチャーリーに対し、級友が「致死的な病原菌を持ったネズミが噛みつこうとしたらどうするか」と問いかけるシーンがあります。するとチャーリーはネズミを「撃ち殺す」と答え、さらに「たとえ君でも撃ち殺すけど」と言葉を続けます。当初はアニマルライツを描いているように思えたのですが、話を進めていくとそれを主題としているのではないことがわかってきました。作中の表現は非常に強烈で、あえて嫌悪感や反発を生むように描いています。ではなにを主題としているか。それは、人は特別な存在なのか、動物と同じなのか違うのかということです。これを繰り返し描き、その問いを言葉ではなくシーンの描写で伝えています。人を撃ち殺すようなことは許せないと読者は思いますが、それはまた私たちが人間だけを特別視している前提をいま一度意識させられます。私もこの表現に強く反応しましたが、この作品が一般に広く読まれているということは、作者の問いかけがとても多くの人々に響いている証左でもあります。私たちのあたり前、むしろ意識さえしない前提や考えに何度も揺さぶりをかけるような作品が本作なのです。

 人は他の動物や自然によって支えられていると単純に言えるほど、現実は美しく穏やかなものではありません。作品の世界でも、日本の法律上でも、動物は無主物とされ、誰かが見つけて拾えば所有物にできる。つまり自らでは権利をもたない。チャーリーは超人的な身体能力をもつスーパーマンとして描かれていながら、人間のヒーローのような正義感は持ってない。チャーリーは動物と人間の間に差がないと言っていますが、それは読者がどう思うかという問いかけでもあります。彼は常に人間を特別だという立場にも、動物だけを優先して守る立場にも立たず、ただ両者は同じだと言い続けている。それに対して状況や展開で、私たちはチャーリーに対して好悪入り交じった感情を致します。現状、この物語がどのように結末を迎えるかが想像できません。

 私たちWWFの活動は、野生動物を守る活動だと思われることが多い。もちろん常に生きものとどのように向き合うかを問い、その根底には守りたいという気持ちがあります。しかしこの活動はそれだけではなく、人が自然との繋がりの中でしか生きられないことを伝える仕事だと思っています。パンダがいなくなったら困りますかと聞かれたことがありますが、パンダがいなくなって困る、困らないということではない。パンダが生きていけなくなる環境は、人にとっても大きな不利益をもたらすものだということです。有明海でも諫早湾の干拓工事で、有明海全体の漁業に悪影響が及び、そこで暮らしを営む人々の生活に困難が生まれました。人か自然かという対立構造ではなく、自然というシステムがなくなると人が生きられないことはみなよくわかっているはずです。生物多様性もまた、私たちの日常に繋がっている問題であることを少しでも知っていただきたい。人はトラが生きていけなくなっても、パンダがいなくなっても、人間だけはいまの生活が続くと信じています。明日も食べて寝て暮らしていけると思っていますが、その約束はありません。『ダーウィン事変』でもこの問いかけが描かれていると感じました。

 人は自然と生きものとのつながりの世界でしか生きられない。動物との関係には改善すべきこと、解決すべきことは多々ありますが、それでも他の生きものと繋がっていきたいとも思っている。生物多様性の受け止め方に正解はありません。みなさんのなかに「自分はどんな自然や生きものとつながっていると感じられる?」問いという形で残ってもらえるとうれしく感じます。まずはその第一歩として、自身の受け止め方を探ってください。

東梅貞義・談

猿飛佐助の紙面
忍術使いに憧れる猿飛佐助は修行の末にようやく忍術使いになり、豊臣の将、真田幸村の家来となる。ヘビやカエル、ナメクジなどの生き物を忍術で仲間にして戦っていく。

猿飛佐助

杉浦茂

[青林工藝舎]

 小さい頃から杉浦茂の漫画が大好きだった。あえてジャンルで言うと「ナンセンス・ギャグ漫画」で、現在60〜70代の方と面白いですよね、と話がはずむ時代の漫画である。彼の漫画にはたくさんの生物が出てくるのだが、今回選んだのは『猿飛佐助』だ。甲賀流忍術の名人こと猿飛佐助が真田十勇士となり徳川に立ち向かう物語である。『大蛇はガマをやぶり ガマはナメクジをおい ナメクジは大蛇をしりぞける三つどもえの血斗!』……生物多様性と聞いた時、真っ先にこの三つ巴が頭に浮かんだ。漫画雑誌の予告ページなのだろう、この丸々一ページ使ったコマが印象的である。通常は“三竦み”と表現されることが多いのだが、ヘビはカエルを飲みこみ、カエルはナメクジを食べ、ナメクジはヘビを溶かしてしまうらしい。共存の真逆では?と思われてしまうかもしれないが、私にとってこういった関係図こそが生物同士の共存であり、自然だと考える。実際に見たことのない”カッパ“や想像上の生きものなども出てくるのだが(私の祖母はカッパに足を引っ張られたことがあるらしく、川に入るときは注意しろと口酸っぱく言われていた。こういう話も実は大事だなと思う)、登場するほとんどが小さい頃からお馴染みの生きものである。

 作中に、カエルがタバコのヤニを食べさせられ、内臓を吐き出して洗っている描写がある。ていねいに洗い、葉っぱの上にちょいと置いた隙に敵に内臓を奪われ、ハゲタカがそれを食べてしまう。内臓を失ったカエルは力尽きてしまうのだが、本当にカエルって内臓を出して洗うの?と気になり調べた。異物が入ると本当に内臓を吐き出して、なんと手でこすって洗い、綺麗にしてから体内にしまうらしい。漫画だからトンデモな描写をしているのかと思いきや、事実に基づいておりびっくりしたのをいまでも覚えている。

 カエルといえば私の姉は無類のカエル好きで、車の窓を開けて田んぼの前を通るだけで「あっ、ここにはオタマジャクシがいる」と匂いだけでわかるような人だったので、後ろからついてまわってよくオタマジャクシすくいをした。すくったオタマジャクシは水槽で飼育し、足の生える過程を見守り、カエルになったら元いた田んぼに返しにいく。カエルはガガンボやアブラムシを食べてくれるので、田んぼにとってありがたい存在なのだ。さらに田んぼの生態系をみると、ヤゴはオタマジャクシを食べ、フクロウ、ヘビ、タヌキがやってきてはカエルを食べる。もっと広く生態系を見てもそうだ。お互いを脅かしつつ、お互いの暮らしを支えている。

 そのバランスを急に崩したのは明らかに人間である。昔はもうちょっと上手くやれていたのに、人間がもう少し賢ければ他の生物たちに迷惑をかけなかったのではないか。私の時代には当たり前に存在していた生きものでも、いまの時代では全く見たり触れたりしたことがない子も多くなってしまったのではないだろうか。ヘビや、カエルや、ナメクジのようなかつて身近だった生きものたちがカッパほどの“幻の生きもの”にならないように、三つ巴の邪魔をせぬよう共存していきたい。

夢眠ねむ

HUNTER×HUNTERの紙面
主人公の少年ゴンが、生まれてから一度も会ったことがない父親に出会うために、様々な困難に立ち向かいながら仲間とともに父との再会に近づいていく冒険活劇。キメラ=アント編(第186~318話)では、捕食した生物の能力を吸収して進化する危険生物とハンターたちの戦いが描かれる。

HUNTER×HUNTER

冨樫義博

[集英社]

 音楽を作る時にコラージュ的な手法をよく使う。自分が惹かれる多種多様なものを組み合わせるのだが、ある意味、いろいろな可能性を一つの箱の中に閉じ込めるような行為でもある。そうやって作った音楽は、結局自分の趣味の世界に閉じたものじゃないかと考えたりする。それはまるでヴンダーカンマー(脅威の部屋)のようだ。美術館や博物館の元になったと言われるヴンダーカンマーとは、死んだ動物の剥製や貝殻などを集めた部屋のことだ。見知らぬ珍しいものを陳列した空間は確かに人をワクワクさせるけれど、そうやって自分たちから隔てられた対象として鑑賞するだけでいいのだろうかと思う。

 「生物多様性を保つ」といっても、たとえば、現存するあらゆる生物のデータを抽出して保存し、それらが絶滅した後にいつでも情報としてアクセスができ、クローン技術で蘇らせることもできたとする。しかし人間が人間のために、多様な生物をすべて管理できればいいのだろうか。人間が学習や娯楽のために鑑賞したり、家畜として利用したり、愛玩動物として飼育したり……。生物は人間のために生まれたのではないから、そういう捉え方は根本的に間違っているのではないだろうか。でも、どうやったら「人間のため(だけ)の生物多様性」の外まで想像力を広げられるのだろう。これはただ道徳的に頭で考えるだけでは難しいことだ。

 フィクション、特に漫画のように娯楽性も高く、かつ深く感情移入しやすい表現を通じて、人間以外の生物の尊厳や命の大切さを、観念的にではなく掴むことができるかもしれない。たとえば冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』は、王道の少年バトル漫画のモチーフをふんだんに盛り込んだ娯楽作だが、作中の「キメラアント編」は、人間とそれ以外の生物との関係について深い洞察をもたらす。他の生物を捕食することでその特徴を次世代に反映させることができるキメラアントが、栄養価が高く美味な人間を捕食対象にしはじめたことで、人間とキメラアントは互いの種の生存を賭けた戦争状態になる。非常に高い知能をもったキメラアントの王・メルエムは、人間を下等な生物として見下しており、残酷なキャラクターとして描かれている。

 だが、キメラアントがしていることは、いまの現実の世界で人間が他の生物に対してしていることとそれほど違わないように思う。にも関わらず、立場が逆転した状況を想像すると、このおぞましさに戦慄する。残酷な争いや恐怖の感覚によってはじめて本当の反省が生まれるシーンが描かれる。人間に対して非情だったメルエムは、「軍儀」という囲碁や将棋を複雑にしたようなゲームで、コムギという人間のキャラクターと興味本位で対局を重ねるのだが、そのなかでだんだんと人間に対する愛着の念が湧いてくるところがとても興味深い。ゲームとはいえ、争いを通じ、はじめて相手に対する尊敬の念が生まれるのだ。このことは、他の生物を、捕食したり、自分たちの利益のために利用したり、あるいは道徳的に保護するかの「対象」としてしか捉えていない、現在の人類の想像力に限界があることを示している。このような作品が、人間が人間以外の生物を本当の意味で尊重し、「人間のための生物多様性」の外へと開くための、想像力の源泉になり得るのではないだろうか。

荘子it

歩くひと完全版の紙面
仕事の都合で郊外の一軒家に引っ越すことになった夫婦。日ごろ眼に止めないような町の風景の数々を「あるく人」の眼から繊細なタッチで畏敬や憧れの対象として描き出す。

歩くひと 完全版

谷口ジロー

[小学館]

 新型コロナウイルスによる行動制限により、帰省することもためらわれた、2021年の正月。家に居ることにも飽きたわたしは、最寄り駅から四駅だけ電車に乗り、ふだんは降りることのない駅からあてもなく歩きはじめた。街には人の姿がほとんどなく、正月らしい、しんとした青空。どこかの見知らぬ家の軒先には、ツワブキやスイセンがその花を見事に咲かせており、人の社会とは関わりがなく、春はやって来るのだと思った。

 路地を抜けしばらく進むと、川と川とが合流する地点に出た。立ち止まって、しばらく流れを見ていると、向こうから白鷺が飛んできて、またどこかへと飛び去っていく。こうしたゆっくりとした時間を過ごすのは、考えてみれば久しぶりのことだった――

 『歩くひと』の主人公は、ストーリーの中で名前を呼ばれることがなく、言わば匿名の存在である。彼は〈わたし〉かもしれないし〈あなた〉かもしれない。だから本書を手にしたとき、わたしはすぐに「この主人公はわたしだ」と思った。彼はマンガのなかで、街の路地を、公園を、川べりを、黙ってゆっくりと歩く。そして歩く速さで周りを見ると、いつもは目に留まらないものが見えてくるのだ。

 護岸整備された都市の川には鯉がゆうゆうと泳ぎ、近くの雑木林には野ウサギの姿が認められる。誰かが木に架けた巣箱からは、セキレイだろうか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。空き地の桜の老木は毎年決まった時期に花を咲かせ、その花びらを絨毯のように、惜しみなく幹の周りに散らせていく……。人間の営みのすぐ近くにありながら、自然の掟に沿って生きている動物や植物の姿が、そこにはあった。

 谷口の描く自然は人間のためにあるのではなく、それぞれ生きたいように生きているように見える(だからその姿は生命力に溢れており、たとえば雑木林など、ときに迫ってくるような印象さえ与える)。そしてその世界のなかでは、人間も生物たちの〈生〉を尊重しているように見え、人間も自然の一部であるという事実が、何も語られなくても伝わってくる。

 最終話。主人公夫婦は、飼っている犬が庭から掘り出した貝殻を、それがもとあった海に返しにいく。遊歩道を抜けると、目のまえには、岩礁と海のある景色が広がっていた。それは、ただ海が描かれている場面かもしれないが、ここまで主人公とともに、歩く速さで世界を見てきた読者には、この海の周りには、豊かな生態系が網の目のように広がっていることが見て取れるだろう。ここに至るまで描かれた、多くの動物たちや植物たちのこだまが、このひとコマには響き渡っているのである。

 冒頭に書いたようなあてもない長い散歩が、いまではわたしのひそかな愉しみとなった。それは、自らを自然に同化させる時間、この世界には人間以外にもそれぞれの〈生〉を生きているものたちがいることを再確認する時間で、そうした〈違い〉こそが大きな安らぎを与えてくれるのである。

辻山良雄(Title店主)

「火の7日間」とよばれる戦争によって、巨大文明が崩壊してから千年。荒れた大地に腐海という死の森が広がっていた。腐海の森と共に生きようとするナウシカと、腐海を焼き払おうとする人々。人間は自然にどのような影響を与え、そして受けてきたのだろうか。

風の谷のナウシカ

宮崎駿

[徳間書店]

 宮﨑駿の同名映画の漫画作品『風の谷のナウシカ』は、私たちの世代にとって誰もがなんらかの形で影響を受けている作品ではないでしょうか。近年はコロナ禍でマスクを着用する状況が作中で描かれる状況に似ており、文明崩壊の予言的な内容も含めて注目された印象があります。文明が行き過ぎたために自然が破壊され、腐海が持つ自浄作用が人間にとっては毒となるという作品の世界観は考えさせられるものでしょう。作中で現実の生物は登場せず、王蟲などの想像上の多様な生物が出てきますが、それらに「生きている」という生命のリアリティを感じます。

 私は人間以外の生物や自然と共同しながら制作をしています。生物のリアリティを感じての制作活動において、さまざまな生物が減り、絶滅していく状況を目の当たりにしています。その状況に対して何かができるわけではないのですが、たとえばビーバーを題材とする作品『彫刻のつくりかた』(2018〜)では、ビーバーの魅力にとどまらず、ビーバーと木、木の中に住むかみきり虫とビーバーの関係など、生物と生物の複雑な関係性を描いています。作品において生物同士の関わり合いや結びつきを大事にしており、そこには「生きものをちゃんと見よう」というメッセージがあります。生物について語りながら、人々はその生物をしっかりと見ていない、人間の尺度でしか見ていないこともしばしばです。はたしてそれは、生物を見ているといえるのでしょうか?

 しかし私も作品作りにおいて生物を観察するほどに、どうしても「私」が入ってしまう矛盾を感じます。私としては彼らをコントロールしないように意識をしていますが、関わる以上はどうしても生物の振る舞いが変わります。実際に生物を見ることは、その生物と関係を結ぶことであり、そこに何かしらの影響が発生します。そういう意味では、生物をありのままに見ることはできません。しかしそこで立ち止まっていては生物が見えてこず、コミュニケーションを取らなくては見えてこないものがあります。そうしないと生物がどんどん遠ざかってしまうように感じます。生物に影響を与えないために関係を結ぶことを諦めるのではなく、しっかりと見ること。私も生態系における一人のアクターですから、それを引き受けなければいけません。だから観察しているというよりも一緒に作っているという感覚をもっています。

 人間がいなければ生物が激減、絶滅せずに済むのではないかとも考えますが、人間がいなくなれば問題が解決する状況でもないように思います。その時に私たちができることは、生物を知ることをやめない、関わることをやめない、生物と関わるなかからもっと学ぶことではないでしょうか。それはまさにナウシカが腐海と共に生きることを決意したことと変わらぬことなのです。

AKI INOMATA・談

北極百貨店のコンシェルジュさんの紙面
舞台はお客様がすべて動物という謎の百貨店で新人コンシェルジュとして働く秋乃さん。彼女の前には毎回、「絶滅種」の動物のお客様が現れます。動物のお客様たちの悩みがヒロインの頑張りと機転で解決されていく。

北極百貨店のコンシェルジュさん

西村ツチカ

[小学館]

 絵を描く人には、それぞれ得意不得意な題材がある。個人的な感想を言ってもよければ、「動物」ははっきり明暗が分かれる。私自身もマンガ家なので、もちろん動物を描こうと思えば描ける。けれども、動物の描写に特に秀でた絵描きの作品にはいつも引け目を感じるし、『北極百貨店のコンシェルジュさん』はその代表のひとつだ。あらゆる動物たちの姿を自在に描き分ける技が存分に発揮されたひとコマひとコマに、ついため息が出てしまう。

 「生物多様性についてのマンガ」と聞いて、すぐに思い浮かんだのがこれだった。通行人など脇役も含めれば、数百種もの動物たちが画面に描き込まれており、そのこと自体「生物多様性」を体現していると言ってもよいだろう。物語を楽しむのはもちろん、これはなんの動物かなどと画面の隅々まで眺めているうちに半日過ぎてしまう。

 このマンガは動物のお客様が来店する北極百貨店を舞台に、コンシェルジュとして働く秋乃がその動物たちのさまざまな要望に応えるべく奮闘する物語だ。愛らしい動物たちが次々に登場する一方で、毎話の終盤で一部の動物がすでに絶滅していることが語られる。また第2話で、先輩コンシェルジュであるトキワから秋乃に投げかけられる問い「なぜ絶滅種をV・I・Aとしてもてなすかを考えたことは?」は、作品全体を貫く謎となっている。絶滅した動物たちはVIPならぬ「VIA(ベリー・インポータント・アニマル)」であり、特に手厚く対応する必要があるという。

 この問いの答えは、最終話の前に挿入される11ページの短いパートにある。要するに、これらの絶滅種VIAは、人間の物質的に豊かな暮らしと引き換えに死んでしまったのだ(一部には絶滅の経緯に諸説ある動物も含まれる)。その絶滅動物たちのために、人間のコンシェルジュが奉仕する北極百貨店の設定には、明らかに皮肉が読み取れる。

 ただし、秋乃たちコンシェルジュがおもてなしに奮闘する様子は、皮肉な設定も霞むほど、ポジティブな情熱に満ちている。たとえば、第6話「小さなお客様」では、バーバリライオンの香水探しを手伝う。手がかりは消えかけの匂いだけだが、周囲にいた別の動物の客たちも知恵を出してくれ、銘柄を特定したのは嗅覚鋭いクマの奥様で、最終的に人間のベテランコンシェルジュの経験を活かした方法で香水を見つけることができる。第10話で息子へのプレゼントに悩むジャイアントモアの相談に応じる物語もいい。この話では、同じ種でさえ、家族でさえ、理解し合うことの難しさが取り上げられている。コンシェルジュたちは、毎回ひたすら相手の困り事に耳を傾け、ともに解決策を考える。この仕事の肝は、「理解しがたさ」を乗り越え、喜んでもらう方法を探ることなのだ。

 最後に、作中に散りばめられている百貨店に関連するイメージについて触れておきたい。2巻の後半には、スイスの画家フェリックス・ヴァロットンが混雑する百貨店を描いた版画『Le Bon Marché』(1893)や、西武百貨店のポスター「ほしいものが、ほしいわ。」(1988)などが描き込まれている。作者である西村ツチカも、私も創作の場としているマンガは大量消費される印刷物であり、イラストレーションやポスターの歴史は百貨店広告と関わりが深い。自らの創作活動が欲望の駆動と結びついていることを自覚しつつ、その中で欲望のあり方を考えることにも意義があるはずだ。本作から渡された問いを、私も自分の関わることとして、抱えて考えていきたい。

山本美希

22XXの紙面
ロボットにもかかわらず食欲を感じてしまう主人公ジャックと、愛する人を食べて命をつないでいく人食種の少女ルビィが出会い、恋に落ちるSF漫画。無駄な食事をしている事に深い罪悪感や辛さを抱えているジャックを通して、「食べる」ことについて考えさせられる。

22XX

清水玲子

[白泉社]

 「多様性」と聞くとコンプラめいたものが頭をもたげるのは、私がマスコミの人間だからだけではないだろう。先日テレビを観ていたら、人気芸人が自分の夫婦生活(夫が外で働き妻が家事育児をする)を「これが俺の多様性だ!」と半ばやけくそに叫ぶ場面があった。今を生きる私たちにとって、多様性の話題は「受け入れる or 受け入れざるを得ないが内心腑に落ちない」のどちらかのスタンスに分けられ、その議論は平行線を辿ることが目に見えてしんどいものである。

 「生物多様性」について考えるとき、日頃の閉塞感がぱっと晴れるような気持ちになる。絶望からみる希望だ。もう、私たちの世界は失われる過程の途中にある。WWFが発行した『生きている地球レポート2022』では、自然と生物多様性の健全性を測る数値が1970年からの過去約50年間で69%減少していることが報告されている。「生物多様性」の視点に立つと、「腑に落ちない」なんて悠長なことを言ってる場合ではないと感じる。本来、誰しもがひとつの顔、ひとつのいのちであって、それは生きる物が生まれながらにして持つ絶対的な権利だ。それが無いということは、生物は死にゆくということだ。生物多様性は、そんな当たり前のことを思い出させてくれる。他方、「生物多様性とは、地球の長い歴史の中で育まれてきた生きものの相互のつながりをも指し示す言葉」「生態系ごと失われているんです」と解説を受けても、罪悪感こそ感じてもピンとこないのも実際のところだ。

 私たちはどうしたらもっと自分以外の存在の危機を切迫感を持って考えることができるんだろう。清水玲子先生の中編『22XX』は、地球ではない惑星を舞台にしたSFだ。地球で開発されたロボットである主人公ジャックは、「食べる」機能が備わっている。お腹がすいて食事をとるけど、それは自分の血肉にはならずゴミとなる。一方、惑星で出会ったルビィはカニバリズム信仰をもつ部族の女性だ。ジャックの正体を知らないルヴィが自分を食べてくれと愛する彼に懇う場面は、その切実さに涙が出る。食べて、自分の命を引き継いでくれ、そうして永遠にあなたのなかに私を残してくれ。この漫画を読むと、「引き継ぐ」ことは生き物の原始的な欲望のようにも思う。その方法はきっと様々で、赤ちゃんを産むこともその一つだし、愛する人の肉を食べることも同じくだ。作家にとっての創作もそれに近いのではないか。

 私たち人間が人間以外のその欲望を他人事のようにしか思えないのは、想像力の限界なのか。それとも欠陥か。自分たちの問題として想像できない間にも、私たちのこの世界は喪失している。だが、私たちは、自分以外の他なる物については想像しても、想像しきれない部分がどうしても残る。圧倒的な断絶がある。だからこそ逆に、想像し、考え続けるのであり、そこにこそつながりが生まれるのではないだろうか。

 ここまで考えて、ふと、故郷の沖縄の米軍基地問題を思い出した。幼少の頃から、どうして基地問題は沖縄だけの問題と報道されるんだろうと思っていた。日本全体の問題のはずなのに?と。そして今思うのは、この問題が議論される時には、生きものたちが排除されているということ。私が望むのは多くの生きものたちがいる「ふるさと」。生物多様性とは、失われた想像を取りもどす私たちの希望だ。

金城小百合

地上はポケットの中の庭の紙面
紅茶の香りに似たアザミが咲きほこる庭、焼きたてのミラベルのタルトと笑い声に包まれた庭……。さまざまな“庭”を舞台に、生きるもののつながりを描く。

地上はポケットの中の庭

田中相

[講談社]

 みどりの手を持つ人とは、花や木を育てるのが上手な人のことを言うけれど、本質的にはきっと地球に暮らす人なのだろうと思う。誰しもが地球に暮らしているはずだけど、あらためて地球に暮らしていますか? と問われると、ちょっと答えづらい。なぜだろう。

 『地上はポケットの中の庭』は4つの短編からなり、それぞれに「庭」と名がついている。そのうちの一篇「5月の庭」は、高校生の山崎がバイト先のコンビニで、迷い込んできたコガネムシを助けることからはじまる。ある日、そのコガネムシが大人と同じくらいの大きさになって現れ、恩返しのためにきたと告げる。セレクトしたのは、山崎とコガネムシが話をしているなかのワンシーンだ。

 この作品を読むと、ああ、そうだ、自分は地球に暮らしているのだ、と素朴な事実を思い出して、静かな感動を覚える。爽やかな風が吹き、生きものがそれぞれのリズムで生き、清々しく香る庭があり、自分がそのつながりの中にいる。そのことに喜びを覚えて感動してしまう。この喜びは、自分(人間)が一方的かつ勝手に自然を持つことからは生じないのだろうなと、今回選んだワンシーンに出会ったときに直感した。地球に暮らす植物や動物、他のあらゆる生物とともに生きているという事実が、喜びを生みだすのだろう。

 もし、そのつながりからある植物や動物がいなくなり、最後に自分(人間)だけが残ったとしたら……なんと寂しいことか。そこにあったつながりから何かが失われていくこと、そのつながりが断ち切れてしまうこと、それは自分の中の「自然」が失われていくようでとても悲しい。

 幼き日のある場面を瞬間的に思い起こさせる作品がある。『地上はポケットの中の庭』もそうなのだが、読んでいて気づいたことがある。それは、思い出す場面のほとんどで風が吹いているということだ。風が吹き、草木が揺れ、青い空と緑の香りの中で走り回っている記憶。自然環境として生きものたちがいてくれることで、生き生きとした感情が生まれ、その記憶もまた豊かなものになっているのだと気づかされた。

 ふと、これらの記憶から自然のものが一切失われたらと想像したら、無性に泣けてくる。それは色がなくなることだ。記憶がかっさかさになる。自分にとって、生物多様性の損失とは色の損失だ。生物多様性とは感情の源泉だ。

 最後にどうしても追記しておきたいことがある。「5月の庭」に続く「ファトマの第四庭園」で、ある登場人物が語るシーンが忘れられないのだ。「庭に来ると平和を思う」。今の時代だからこそ胸にくるものがある。生物多様性の本当の豊かさとはこの言葉の中にこそあるのではないだろうか。みどりの手を持つ田中さんの作品から、そんなことを気付かされた。

田口康大

※選書やエッセイに描かれている内容は、作品および選書者によるもので、WWFの主張・見解を表すものではありません

イベントレポート

 2024年6月30日(日)、代官山蔦屋書店にてイベントを開催しました。選書されたシーンやエッセイのパネル展示、記念ブックレットのお披露目やコミックの販売の他、選書者が登壇するトークセッションをお楽しみいただきました。登壇したのは、AKI INOMATAさん(アーティスト)、越智康貴さん(フローリスト)、東梅貞義(WWFジャパン事務局長)、ファシリテーターを務めたのは、コミック・ダイバースの企画者であり選書者でもある田口康大さん、企画編集者の山田泰巨さんです。

代官山蔦屋書店でのイベントの写真

 トークセッションは、各登壇者が選書したマンガの紹介から始まりました。WWFジャパン事務局長の東梅が選んだ『釣りキチ三平』の舞台のひとつである諫早湾では、干潟が失われたことで、そこを餌場としていた渡り鳥の飛来地が失われ、さらに人間が暮らしを営む漁場も失われたという過去があります。この出来事には一連のつながりがありますが、私たちがそれを実感するのは容易いことではないという提起がありました。

 その後、渡り鳥と植物の関係に話が移りました。一見、鳥が栄養補給のために植物の実を食べて利用していると捉えがちですが、植物の種は鳥に食べてもらうことで、自身では移動できない飛来先の地で、やがて芽を出します。生物に視点を移すことで見えてくるつながりもあるということが語られました。

代官山蔦屋書店でのイベントの写真

 続いて「食べる」という行為に着目しました。人間は他の生きものを食べることで生きています。選書者のひとりである里中満智子さんの「私には小さい頃から絶対に食べ残せなかった食材がある。それがしらす干し。無数の小さな命を私一人がいただく大きなプレッシャーを感じる」という談話を受けて、日々口にする食物に「命」が宿っていると捉えるとき、どのような感覚が生まれるのかについて意見が交わされました。

 また、食は生きるため以上に暮らしに豊かさを与えてくれることもふまえ、「ないと困る」ではなく、「一緒だとおもしろい」「つながっていると楽しい、美味しい」というふうに生物多様性を捉えられないかという会話も生まれました。終盤には神社の話題が取り上げられました。神社があると、私たちはその場所に対して厳かな気持ちを抱き、大事にしようと手を合わせます。日本各地の神社は、山の上や川の氾濫源など、守るべき自然の要所に置かれていることも少なくありません。神社を大事にするような感覚で、自然や生きものを大事にしようという感覚になっていくにはどうしたらよいか。参加者とともにこの問いに向き合う時間となりました。

代官山蔦屋書店でのイベントの写真

 人間もまた生物であり、他の生物とのつながりの中で生きています。このつながりの中に自分がいるという感覚をどうやって取り戻していくのか。その際にマンガはよいきっかけとなるのではないかと、次なる展開への期待とともにトークセッションは終了しました。

代官山蔦屋書店でのイベントの写真

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